琥珀色の戯言

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【読書感想】パスタぎらい ☆☆☆

パスタぎらい (新潮新書)

パスタぎらい (新潮新書)


Kindle版もあります。

パスタぎらい(新潮新書)

パスタぎらい(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
イタリアに暮らし始めて三十五年。断言しよう。パスタよりもっと美味しいものが世界にはある!フィレンツェの絶品「貧乏料理」、シチリア島で頬張った餃子、死ぬ間際に食べたいポルチーニ茸、狂うほど愛しい日本食、忘れ難いおにぎりの温もり、北海道やリスボンの名物料理…。いわゆるグルメじゃないけれど、食への渇望と味覚の記憶こそが、私の創造の原点―。胃袋で世界とつながった経験を美味しく綴る食文化エッセイ。


 フランスの美食家、ブリア=サヴァランの「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう」という言葉があります。
 この本、ヤマザキマリさんによる食べ物エッセイなわけですが、ヤマザキマリさんのファン、あるいは、ヤマザキさんの生きざまに興味がある、という人にとっては面白いはず。
 逆にいえば、ヤマザキさんの個人的な体験とか好みに忠実な文章なので、「食の権威によるグルメエッセイを読みたい」とか「何か自分の知らない食べ物の世界を覗いてみたい」という人には、「なんか貧乏くさい食べ物の話ばっかり」だと思われるのではなかろうか。
 僕の個人的な感想としては、「つまらなくはないけれど、わざわざ読まなくてもいいかな」だったんですよ。全然「おすすめ」になっていませんが。

 
 ヤマザキさんの人生のさまざまなターニングポイントで、「食べ物」がきっかけになっているのです。
 1995年に未婚で産んだ2歳の子どもを連れて日本に一時帰国した際、テレビ局のプロデューサーとイタリア料理店で会食をしたのがきっかけで、ヤマザキさんは札幌のローカル番組でイタリア料理を紹介することになりました。

 最初にお披露目したのは、「アマトリチャーナ」というおそらく日本のナポリタンの原型となったと思しきトマト系のスパゲッティだった。これだって、食材費はたいして掛からない。生放送だったので、料理中の私の呟きもそのまま視聴者には届く。「人数で割っても食材費は一人百円そこそこじゃないでしょうかね」とか、「レストランだと千円以上で出してたりしますからね」とか、およそ料理番組にふさわしくない言葉が主婦層には大いにうけたようだが、レストランの経営者やシェフたちは腹を立てたらしい。当然である。
 とにかく、安上がりで腹持ちするパスタはイタリアにおいては庶民のための食であり、イタリア映画でも貧窮した様子を表現する時は、大人数で大量のトマトソースのスパゲッティを食べるシーンをよく用いている。私もニンニク塩コショウパスタが続いて、さすがに飽きてきた時は、奮発してひと缶50円くらいのトマトの水煮を調達し、トマトソース仕様にしたりするのだが、自分の人生でいったいどれだけこの類いの「貧乏パスタ」を食べてきたのか数え切れない。


 ヤマザキさんは、けっこう好き嫌いがはっきりしていて、生のトマトなどの酸っぱいものが苦手だったり、コーヒーが飲めなかったりという「苦手なもの」の話も多く出てくるのです。
 ある土地で生活をしていくうえで、「食べ物が口に合うか」って、かなり大事なはず。トマトもコーヒーも苦手でイタリアで生活するのは大変だっただろうなあ。

 
 ヤマザキさんは、日本、イタリアだけではなく、ポルトガルアメリカでも暮らしていたことがあって、それぞれの国の食文化の比較もされています。

 日本はスナック菓子大国である。アジア圏はどこも大体スナック菓子が充実してはいるが、日本ほどの種類の多さとクオリティの高さを感じさせる国はない。
 アメリカといえば、ポテトチップスやポップコーン発祥の地でもあるわけだし、さぞかしスナック菓子の種類が豊富なのだろうという勝手なイメージを持っていたが、実際一時期この国で暮らしてみてわかったのは、確かにスーパーマーケット内でスナック菓子の棚が占める割合は大きいけれど、それは決して種類が豊富だからではなく、それぞれの商品のサイズが巨大でカサがあるからだった。枕みたいなサイズの袋に入ったポテトチップスも普通に家庭用として売られていたが、
決して日本のように、多種多様な種類のスナック菓子があるわけではないのだ。

 これは、3年前くらい前に僕がアメリカに行った際も、同じことを感じたのです。
 とにかく売り場は広いスーパーマーケットなのだけれど、置かれている食品のバリエーションは、日本のコンビニのほうが多いくらいではないか、と。
 アメリカには「ジャンクフード大国」のイメージがありますが、むしろ、日本のほうが質的には充実している気がします。
 

 ヨーロッパの人たちは、「ワイン・ナショナリスト」の傾向が強い。イタリア人ならイタリア産のものを、さらに自分たちの暮らしている地域や、家族や親せきに縁のある地域のものを選ぶ。これはフランスやスペイン、ポルトガルといったワイン多産国でも同じだろう。
 ポルトガルに暮らしていた時は、近所の酒屋やスーパーマーケットの売り場に置かれていた8割が、ポルトガル産のワインだった。個人商店に数本だけ置かれていた隣国スペインのワインが気になって買おうとしたら、「ポルトガルにいるのにスペインのワインなんか飲むな。それはスペイン人の観光客用だ」と店主のオヤジに忠告され、薦められたアレンテージョ地方(ポルトガル中西部)のワインと取り替えた。スペインでも同じく、街中の酒屋には隣国であるはずのポルトガルもフランスのワインも置いていなかった。かつて夫の実家に帰省する際、何本か美味しいと感じたポルトガルワインを持って行ったことがあるが、棚にいったんしまわれたそのワインが実際に飲まれたのはその数年後、いつものワインを切らしてしまって止むを得ず、という理由によるものだった。
 その夫の実家にフランスからの客人が、ボルドーの名酒を持ってきたことがあった。さすがに皆珍しがって飲みたがり、その場では盛んに「これは噂通り美味しい!」などと口にしていたが、客人が帰った途端、「でも、本当はあのワインより絶対地元のワインのほうが美味しいよな……」などと小声で漏らしていたこともある。私はボルドーの名酒の方が遥かに美味しかったのだが、彼らのワインに対する保守性とその徹底ぶりは、われわれ日本人やアメリカ人のような「多国籍食文化受け入れ型」には、かなり信じ難いものがある。


 日本人は、最近とくに「日本ってこんなに素晴らしい!」という話を好んでいるように思われますが、食に関しては、ここまでナショナリストではないですよね。
 正直、「なんでも地元のもののほうが美味しい」というほうが、お金もかからなくて良いのではないか、とも思うのですが。

 この本を読んでいると、食に対してこだわりが強く、好き嫌いもけっこうあるのに、さまざまな国で、現地の人と親密になるために、かなりハードなメニュー(「南太平洋の村での蝙蝠のシチュー」や「モスクワの謎の小骨だらけの得体のしれない肉の煮込み」など)も口にしている、というヤマザキさんの振れ幅の大きい生きざまに圧倒されてしまうのです。
 「嫌いなものは嫌い」でも、人間、けっこういろんな場所で生きていけるのです。
 「肝が据わってさえいれば」なんですけどね。


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