琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【連載】もう、個人サイト業界への「新規参入」の時代は終わった(4)〜個人サイトはどこへ行くのか?

 不定期ながら、もう少しだけ続きます。

 この「個人サイト業界への「新規参入」の時代は終わった」を書いてきて、いろんな反応をいただいた。「面白い」というものもあれば「よくわからない」「あまりに悲観的なのではないか」というものもあったのだけれど、ひとつだけわかったことは「そうかもしれない」「まだ参入の余地はある」と言う人がそれぞれいる一方で、「個人サイトは、これからが成長期なのに!」というリアクションを返してくれた人は、(僕の知る限りでは)ひとりもいなかった、ということだ。もっとも、僕に届いていないだけで、実際に「これから」だと思っている人だっているのだとは思うのだが。
それでも、今、実際にサイトを運営している(あるいは、このテキストにたどり着くくらいには、ネットの辺境に通じている)人間にとっては、「個人サイトバブル」みたいなものは終わっている、という共通認識はあるのではないだろうか。「そんなものはもともと無かったのだ」というスタンスの人もいるとは思うけどさ。

 話がいきなり最初に戻ってしまうようで恐縮なのだが、僕が最近考えているのは、「個人サイトって何?」ということだ。僕が最初に個人サイトを作った4年前くらい(もうそんなになるのか!)は、個人サイトというのは、『プロフィール』『日記(ネタ系も含む)』『掲示板』『リンク集』を有するのが基本的な形態だった。そして、そこでは「自分のこと」あるいは「自分の趣味」が語られていた。中には、自分や家族、ペットの写真などが一緒に載せられているものもあり、まさにサイトというのは「名詞代わり」だったのだ。
 もちろん、そういうサイトは今でもあるのだが、その一方で、「個人サイト」には限界もあった。
 正確には、「限界が見えてきた」のだけど。
 多くのサイトで行われていたのは、いわゆる「自分語り」なのだが、実際のところ、自分でサイトをやろうという好事家たちというのは、初期のころは「表現欲を持て余しており、パソコンの前に座るくらいの時間はあるのだけれど、実名で、リアルで勝負するのは恥ずかしい、あるいは、状況が許さない、という人が多かった。それまでは世界に意見があったとしても、実際に政治活動に身を投じたりするほどの思い切りがある人は少なかっただろうし、文学賞や二科展で勝負するのはさすがに…という趣味人もいたに違いない。というか、そのレベルになると、「作品に対して反応をもらえる」のは、ごく一部の「選ばれた作品」のみになってしまうし。とはいえ、現実世界の知り合いに感想を求めるには、わかってくれる相手は少ないし、何より恥ずかしい。まあ、「恥ずかしい」とか言っている時点で、「失格」なのかもしれないのだが。

 まあ、それでも、個人サイトというのが、「自分、あるいはその作品を比較的簡単に世に出せて、第三者からの反応を得られるツールであった」のは間違いなかったのだ。そして、ブログの発達で、「サイトを作ること」への敷居は、本当に低くなった。昔はHTMLがわからないと…という世界だったのが、「ホームページビルダー」によって「パワーポイントが使える人なら…」という時代になり、今では、「WORDで文章が打てる人なら…」という時代になった。
しかしながら、眞鍋かをりが実名で顔写真も出してブログをやっているこの御時世に、何の変哲もない普通の人々の匿名のサイトを、誰が好きこのんで見るのだろうか?現在も栄えているサイトの多くは、「(ライバルが少なかった)選択肢の少ない時代に登場して、今ではもう、管理人のキャラクターが定着しているもの」が多い。
 いや、僕は見るし、そういう「無名人の日常サイト好き」という層が存在するというのはよくわかる。だが、そういう層の増加に比べたら、「サイトで自己主張したい」と考えている人の増加のほうが、圧倒的に激しいのだ。僕は最近、「実は、個人サイトの読み手というのは、大部分が自分でサイトをやっている人なのではないか」と考えている。ある意味、同人誌的な趣味の世界になりつつあるわけだ。もちろんそれが、良いとか悪いとかではないのだけれど。

 僕は最近感じるのだ。
 もしかしたら、「有名サイトを作って、リアルワールドで有名になる」よりも「リアルワールドで有名になってから、有名サイトを作る」ほうが、簡単なのではないか、と。いや、それはさすがに言いすぎかもしれないが、人によっては、そういう場合もあるような気がする。
 そして、「ネット上だけで完結している才能」というのは、この先、どんどん追い詰められていく予感がしている。たとえば、文筆業には「エッセイスト」という職種があり、「エッセイで有名になった人」というのがいた。それはたとえば林真理子さんであり、村松友視さん、嵐山光三郎さんであったりした。
 そして、今、「エッセイスト」として有名な人といえば、東海林さだおさんや椎名誠さん、原田宗典さん、阿川佐和子さん、江國香織さん、室井滋さん…
 この人たちは、みんな、「エッセイしか書いていない人」ではない。
 というか、むしろ、他のジャンルでの成功者で「面白いエッセイも書ける人」なのだ。
 野球がものすごく上手いとか、100メートルを9秒台で走れるというような「眼に見える才能」は、それだけで「売り」になるのだけれど、「エッセイを書く」というような「誰にでもできそうなこと」というのは(実際には面白いものを書くのは難しいにしても)、「書き手のキャラクター勝負!」みたいになっていくのだ。そして、「POPOI」の時代は、「若い女性であること」「比較的赤裸々な内容」というのは「付加価値」になりえていたのだけれど、いまからスタートするのだとすれば、そのくらいでは、「付加価値」にはなりえない。先行者として、自分のキャラクターを定着させてしまった人は読まれ続けるが、今から参入する人たちに関しては、よほどの「付加価値」がなければ、読み手の「ブックマーク」に入るのは難しい。
 純粋に「WEB上に面白い文章を書く才能」だけで評価される時代というのは、もう終わってしまっているのだ。そこで、書き手たちは、「付加価値」を上げるために、さまざまな試行錯誤の迷宮に足を踏み入れることになる。
先日「殺人依頼サイト」の管理人が逮捕されたのだが、この男は、マスコミに対して「サイトのアクセスを稼ぐために、そういうインパクトのある言葉を入れたのだ」と語っていた。客観的にみれば、「愚劣極まりない言い訳」なのだけれども、ずっとサイトをやってきた人間にとっては、そういう「心境」というのは、けっして理解不能なものではない。あるいは、「ヤクで寝かせちゃうよ」と書いた医師のサイトなんていうのは、「本音」というより、「ネタとして悪ノリしている」ようにも思える。サイトというのは、恐ろしいことに、来る人が多くなるにつれ、より「過激に」なりやすいという性質がある。僕だってこうしてこの文章を書きながら「今回はつまんねえ」と言われるのではないかと心配でしょうがない。そして、ニュースサイトで紹介されたりすると、一時的に1日1万(!)というような「津波アクセス」が押し寄せて管理人はあたふたし、そして、津波が去っていったあと、あまりに海が静かになってしまうことに、また混乱する。そして、「なんかまた面白いこと書かなくちゃ、アクセスが減る」という強迫観念にかられる。もちろん、津波効果で平均アクセス数というのは少しは伸びるのだが、その津波の時期に比べればあまりに微々たる変化しかないために、なんだか物足りなくなってしまうのだ。それでも、一度津波が来るまでよりは、少し波の平均は高くなっているのに。
 そうして、反応が多い、「不倫」とか「職業上の秘密」とか「サイト論」を、サイトに書いていくと、運がよければアクセスは伸びる。それに気を良くして(あるいは、普通のことを書いていたら、アクセスが落ちるのではないか、という恐怖にとらわれて)、もっとキワドイコトを書く…を繰り返しているうちに、ある日誰かに「そんなことは道徳に反する!」と言われて、某巨大掲示板に晒され、閉鎖への道のりを辿ることになる。「閉鎖」ですめばいいが、ひどい場合には、リアルでもダメージを受ける場合もある。
 「あまり売れていないライター」「自分をアピールしたいアーティストの卵」などは、失礼な言い方だが、「失うものよりも、得られるメリットのほうが明らかに大きい」から、思いきったことをサイトに書ける。だが、「普通の人間」とくに「自分のこと」を書いている場合には、あまりにネット上でアクセスを集めすぎるというのは、得られるものに比べたら、危険性があまりにも高すぎるのだ。それでも書き続けたくなってしまうというのが、「自己顕示欲」の恐ろしいところ。そして、ネット上では、「失うものが少ない人」のほうが、基本的には強い。サイト管理人は、サイトを閉鎖しないかぎりそこから逃げられないが、「名無しさん」は神出鬼没だ。

 ネットでの「メール恋愛」が出てきた頃には、「相手の顔や年齢、職業などにとらわれない、心と心の出会い」なんていうのがウリにされていたのだけれども、今はすぐに「じゃあ、顔写真送って!」という世界になっているのと同様に、結局、「まだるっこしい幻想」よりも「セキュリティ」や「便利さ」のほうが優先されるというのが「一般化」というものなのかもしれない。
 ネット上の「論争」でも、以前は、「ネットなら、みんな平等」という「理想」をみんな抱いていたはずなのに、最近は、「自分の社会的地位をひけらかして優位に立とうとする人」というのが、増えてきている印象がある。
 医療サイトというジャンルにおいても、「実名で正論を述べることができる偉い先生」がどんどん出てくるようになると、僕のような零細サイトとしてはやりにくいこと甚だしい。いくら僕だって、相手が同じ業界の偉い人だと、名指しで噛み付く勇気はなかなかないものなあ。「名を名乗れ!」とか言われたら、現実世界でのリスクを侵してまで「告発」する勇気なんてない。そもそも、そんな勇気がないから、こうしてネット上でHNを使ってサイトをやっているわけで。

 現在「テキストサイト」「日記サイト」というカテゴリーで生き残っている人の大部分は、「オフ会」など、リアルでの交流に積極的な人が多い。あるいは、「ものすごくメールまめな人」とか。「来たメールには、全部お返事してます!」なんていうのを読むと、本当にすごいなあ、と思う。率直に言うと、僕が最近考えている「個人サイト成り上がり法」の中で最強のものは「オフ会とかに出まくって、オフレポを書きまくる」とか、「オフ会でお願いして、有名サイトの人にリンクしてもらう」というものなのだ。つまり、「ネット外の世界」からのアプローチのほうが、すでに「ネットで成り上がる方法」として、有効になりつつあるのではないか?と感じているのだ。もちろん、サイトそのものに、ある程度は内容がなければ、一時的な波で終わってしまうとしても。
 それは「ネットとリアルの境界線」がなくなりつつあるということでもあるし、そんなものはもともと無かったのに、僕たちが勝手に「幻想」を抱いていたのかもしれない。
ひとつだけ言えることは、「現実でモテる奴じゃないと、ネットでもモテない」という時代になってしまっている、ということだ。
あと10年くらいすれば、「個人サイトは顔出しが原則」になってしまって、「覆面WEBサイト管理人!」なんていうのが、舞城王太郎のように話題になる時代が来るのではないだろうか。少しずつ個人サイトは、「建前日記」と「友達のみに見せるもの」に両極化してきている。もう、「本音」なんて、怖くて書けない。
「ネットは別世界」というファンタジーは、もう、過去のものになりつつある。
気弱な表現者たちにとっては、ネット上ですら、もう、居辛い場所になりつつあるのだ。

 そして、僕らはまた、こう言うようになるのだ。
「サイト運営なんて、誰が見てるかわかんないし、よっぽど自信がないと、恥ずかしくってできないよ」と。

鬼嫁日記

http://www.ktv.co.jp/oni/

第1回を観たのですが……
うーん、笑えん、ビタイチ笑えん……
僕が男だからかもしれないけど、なんかもう、単なる「イジメ番組」としか思えない。

世界の中心で、愛をさけぶ」みたいな作品の場合は、映像化によって「小説としてはできすぎだけど、こういう話もあるかもしれない」というような架空のリアリティを獲得できる面もありそうだけど、「鬼嫁日記」の場合は、「こんな現実は観たくねえ」というのが僕の感想です。「本当は仲がいいんだよ」と制作側は言いたいのかもしれないけどねえ…

「タモリのジャポニカロゴス」より〜『主語回避のストラテジー』

〜相手が呼びかけにくい人の場合は、相手への直接的な呼びかけ(「あなた」とか「君」とか「○○君」のような)を「省略」するのもひとつの手段。そういえば、僕も学生時代、「○○君」と呼ぶにはよそよそしすぎる感じで、呼び捨てやあだ名で呼ぶほど親しくない人をどう呼んでいいか非常に困った記憶があって、結局、無意識にこれをやっていたんですよね。勉強になりました。
 

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