琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【連載】もう、個人サイト業界への「新規参入」の時代は終わった(5)〜「思い知らされる」個人サイトたち

過去の内容
(1)「テキスト庵」の「読まれたい」人々

(2)「成り上がれない」個人サイトたち

(3)個人サイトの衰退と限界

(4)個人サイトはどこへ行くのか?


 とりあえず、この連載も今回で最終回にしたいと思う。
 まず↓の記事を読んでいただきたい。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2005090500131&genre=M1&area=Z10

 15歳の文藝賞受賞、というニュースは、まあ、どんどん受賞者が若年化してきつつある今の世の中では、そんなに驚くべきことではないのかもしれない。綿矢りさが19歳で芥川賞を獲ったときにはさすがに驚いたけれども、ここまでくれば、もうこれは「傾向」の一つの具体化例でしかない。そして、そういう「傾向」には、ネットがかなりの役割を果たしているのではないかと思う。
 ネットに関して言えることは、「少なくともコンピューター(あるいはインターネット)は、いろんな面での『才能』の個人差というのを、残酷なまでに見せつけるツールになっているのではないか、ということなのだ。
 将棋の棋士の世界でも、パソコンの導入によって、一気に「新世代」の棋士たちが、時代の中枢を占めるようになっていった。今までは、先人の「棋譜」を集めて研究するにしても、その入手することそのものが「有名な先輩棋士に有利」であったし、なんといっても、「対局経験」というのが、「実力」に占める要因として大きかったのだ。
 しかし、インターネットによる情報の共有化は、今までの世の中では、「才能はあるけれど、経験不足だったはずの棋士」たちに、大きなレベルアップをもたらした。彼らはパソコンの前に座りながら、さまざまな先人の経験を収集し、分析できるようになってきたのだ。
 そういう状況になってしまえば、若い頭脳は、先人の「経験」をはるかに乗り越えられる可能性を持っている。
 小説の世界でも、同じなのではないだろうか。例えば、今までの小説家には「人生経験」みたいなものが必要だとされていたのだが、今では、ネット上のコンテンツとして、さまざまな「人生の追体験」が可能となっている。田口ランディさんのように、そのやりかたを誤って頓挫してしまった人も出てきたけれど、ネットというツールによる「情報の共有化」というやつは、少なくとも、「若くて経験不足」と一蹴されていたはずの才能たちに、「一つの『情報』として、経験を補填する機会」を劇的なまでに与えたのだ。

 僕は思う。文章を書く基本的な能力なんて、中学生時代の僕も今の僕もそんなに変わらないのではないか、と。要するに、書く能力の「骨組み」みたいなものはそんなに進歩することはなく、「何が書けるか」という「肉付け」が増えていくだけなのではないか、と。
 だが、今では、ネット上に「肉付けの材料」は腐るほど転がっていて、「人生経験」なんていうのは、あまり大きな武器にならないのではないか、という気がしている。料理人としての資質が天性のものであり、問題は人脈による良い材料集めの差なのだとするのなら、同じ材料が使えるようになってしまえば、料理人の力量に年齢は関係なくなってしまう。

 それは幻想なのかもしれないし、僕としてはそうであってほしいという気持ちもあるのだけれども、少なくとも「感性」と「骨組みとしての文章力」があれば、15歳の女の子でも、文藝賞を獲れるような作品を書くことが可能な時代になったのだ。そして、僕ら30代くらいの大人が上の世代から「経験不足」と抑えつけられている間に、下からは、ネットというツールを操って、「実体験ではない経験」を身につけた新世代たちが、あっという間に追い越していく。
 まあ、逆に、そういう状態で、「作家」になってしまうことが、その人の人生において幸運なのかどうかはわからないのだけれども。15歳から「作家としての人生」しかインプットされていない状態で、果たして、人々に伝わる物語を編み続けられるのかどうか。それは、今の時点では、誰にもわからない。
 ただ、少なくとも、ネット時代というのは個人間・世代間の情報格差を劇的に小さくし、その結果として、個人個人の能力格差をより大きくしていくのではないだろうか。情報を効率よく得ることさえできれば、若くてもシンデレラストーリーの主人公になりうるという事実は、最近、驚くほどに増えてきているのだ。
 正直、いろんな個人サイトを巡回していて感じるのは、「サイトでは、大人だからといって賢いとは限らないし、その逆もまた真なり」ということだ。自分の社会的地位にしがみつくばかりの「大人のサイト」よりも、「青二才のサイト」のほうが、はるかに建設的な意見を述べ続けていたりもするのだ。もちろん、「理論倒れ」みたいな笑止千万な例もたくさんあるのだけれど。
それはある意味良いことなのかもしれないが、僕のような「才能がなく、若くもない人間」にとっては、やはり悲しい真実でもある。
 いやむしろ、「情報を集める手間を惜しまない勤勉さ」と「才能」さえあれば、日常に追われ、しがらみを抱え、「先入観」に流れがちな大人たちよりも、使える時間が多くて失うものがなく、純粋な想像欲を持っている若年層のほうが、はるかに「有利」なのではないかとすら思えてきて仕方がない。もちろん、そういうものに対しても「早熟」「晩成」はあるのだろうけれども、全体的には「早熟化」の波は、おさまりそうにはない。
 作家になることを信じて努力するはずだった大人は、そのうち日常に追われて「家族のため」に働くようになり、「オレも昔は作家志望だったんだ」とか、酔っ払ってクダを巻くようになるが、やるべきことが見つからず、「書くしかない」という衝動のために時間を費やせる若者たちは、「骨組み」としての才能さえあれば、「経験」とかいう厄介な障壁を乗り越えて、いきなり書き始めることが可能になってきたのだ。その代わり、彼らにとっての「タイムリミット」も早くなってしまうのだけれども。

 「もう、個人サイト業界への『新規参入』の時代は終わった」
 僕は、やっぱりそう思っている。正確には、「サイトを持っているだけで『特別』だった時代は終わった」ということだ。
 たぶん、本当に才能のある人たちにとっては、まだまだチャンスは転がってはいるはずだ。もちろん、今から「侍魂」を作り上げることは至難だとしても、個人サイトには、まだまだ可能性があるのは事実だし、何かを創っていく作業というのは楽しい。成り上がりを目指さず、他人に自分から声をかける勇気さえあれば、それなりに楽しめる世界なのだろうとは思う。そして、ものすごく才能のある一握りの人々にとっては、成功への直通エレベーターなのかもしれない。
 だが、その一方で、これからの個人サイトというのは、より一層「自分の才能の無さを思い知らされる場所」になっていくという予感がしている。
 なんであんな15歳の女の子が?と思われるのはかわいそうだが、「自分のほうがもっと上手い」と信じている「認められない人々」が、世界にはたくさんいるのだ。そして、その「土俵にすら上がれない人」たちは、「成功者」を批判することによって、自分を高めようとする。その「批判」すら、誰にも届いていないのに。
 これって、どこかで聞いたことがある話ですよね。
 そう、「あの大手サイト、あんなに面白くないのになんでどうして人気があるんだ?」というのと同じこと。批判されるのは悲しいが、批判の対象にすらならないのは、もっと悲しい。
 これからは、より先行していて、より才能があって、より外部に対して積極的なサイトでないと、大きな成功を得るのは難しい。
 もう「馴れ合い」の時代は、終わりつつある。

 それでも、「個人サイト業界」に、「新規参入」したいと思いますか?

福岡のメイドカフェに風俗営業指定

http://www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-051015-0007.html

僕はメイドカフェというのに行ったことはないんですけど、これが「風俗店」なのかどうかは、ちょっと微妙だと思われ。たぶん警察も文書と口頭での確認で「風俗」ということにしたんだと思うのですが。
それにしても、メイドカフェの「接客用語」って、文章にしてみると確かに「風俗」ぽいですね。

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