読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

西の魔女が死んだ

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

児童文学っぽい内容に大きめの字、空いた行間。ああ、なんか柄にもない本を読み始めちまったな、という感じだったのですが。読み終えて、清々しい気持ちになりました。このくらい子どもの感情に媚びていない(と僕は思ったけれど、今のリアルな中学生にとってどうなのかは、正直わかんないんだけどさ)小説じゃないと、かえって子どもにも伝わらないんだろうなあ、という気がします。
それで、僕がこれを読んでいちばん考えさせられたのが、自分の「生」に対するスタンスなのですよ。僕も子どものころは、「歴史の片隅にでも、名前を残せる人間になりたい」なんてココロザシがあったのですが、今は正直、「太っても美味しいものを食べたい」とか「勉強するのめんどうだから寝る」とか、かなり現世利益方面に比重を置いて生きているわけです。まあ、どうせそんなエライ人にはなれそうもないことは、自分でもわかるしね。
でも、この本を読んで、なんというか、自分が死んだあとに周りの人に「あの人は『偉人』ではなかったけど、立派な人だった」と言われるような生き方をしなくてはならないな、と思えてきたんですよね。周りがどうであろうと、ちゃんと、背筋を伸ばして生きるように心がけなくては、って。むしろ、生きることに慣れ、死ぬことを諦めてしまった大人こそ、読むべき本なのかもしれません。
ただ、あとがきの人が、これを「田園小説」的な「スローフードスローライフ推奨本!」みたいに解釈していたのが、僕にはちょっと寂しかったのだけれど。

「空気が読めない人」と「空気が読めないふりをする人」

WEB

「嫌われている証拠を見せて」
http://aozora.sub.jp/diary/rnote.php?u=diary/2006/03/20050306_1442.htm

「空気の続き」
http://aozora.sub.jp/diary/rnote.php?u=diary/2006/03/20050308_1515.htm

「子連れは邪魔?」
http://kasumination.blog50.fc2.com/blog-entry-13.html

 僕は「空気が読めない人」というのが大嫌いなのですけど、この3つの文章を読んでいて、それが誤りだったということにようやく気がつきました。そう、僕が嫌いだったのは、本当は「空気が読めない人」じゃなかったのですよね。
 逆に「本当に空気が読めない人」に対しては、全然腹なんて立ちません。例えば、お葬式で3歳くらいの子どもが異様な雰囲気に耐え切れずにはしゃぎまわったりしますよね。もちろん僕たちはそれをたしなめるわけですが、そういう状況で、その子どもの無知に腹を立てる人はほとんどいないはずです。「まだ、そういう知識を持っていないんだからしょうがない」と、周りはみんな「理解」するでしょう。でも、20歳くらいの大人が、お経をあげているときに携帯で突然話し始めたら、そりゃあみんな怒りますよね。そんなの当たり前です。それでも、その大人が「ああ、僕ってよく『空気の読めないヤツ』って言われるんですよね〜」って言ったらどうでしょうか?ああ、空気の読めない人なら、しょうがないなあ!って納得できますか?
 「本当に空気が読めていない人、読めるはずがない人」に対しては、僕は寛容になれると思います。外国人が茶席であたふたしても、当たり前だと思うもの。でも、「オレって、空気が読めない人なんだよね〜」と、自分をアピールするために、わざと場にそぐわないことをやってみせる人ってけっこういますよね。僕はそういうのって許せない。だいたい「空気が読めないんですよね〜」とか言っている時点で、コイツはちゃんと、その場の「空気」を読んで、「この自分の行動は、『空気が読めないヤツの行動』だ」と判断し、あらかじめ自分で宣言することによって予防線を張っているのだから。そもそも「オレってバカだから…」と言いながらバカなことをやるやつとかも許せないんだ僕は。バカだと自覚できるくらいの能力があるのなら、バカじゃない行動だってやればできるはずだろ?
 そして、さらに嫌いなのが、「なら証拠を見せてみろ」って言う人なんですよ。というか、相手が何も言ってこなかったらOKの証拠だなんていうのは、痴漢の理論じゃないのかね。言葉や行動に出なくても、「こんなことをしたら相手は嫌がるはずだ」なんていうのは、考えればある程度はわかるはず。自分が面と向かって注意されなかったからといって、それを「許容」だと判定するなんて、まさに「空気を読めないふりをする行為」だと思うのですよ。いや、人って言葉や行動にあらわさないときでも、内心には「喜び」から「激高寸前」まで、たくさんあるんですよ。腹が立っていても口には出せない、出しにくいこともあるのです。「空気を読めないふりをしている人」というのは、そういう他人の気持ちに対する「思いやり」ってものが欠けているから嫌われるのです。「人が嫌がりそうなこと」なんて、大人だったらある程度想像がつくはずだし、「オレは空気が読めないヤツだから、他人の心を傷つけてもしょうがない」なんていうのは、そっちの勝手な都合なんですよね。僕からすれば、「空気が読めない」と自覚していて、本当に他者に対する配慮があるならそんなに威張り散らさずに黙ってろ!としか言いようがありません。
本当は、誰よりも「空気を読んでいる」くせに、「空気なんて読めない」なんて言う人は、自分が他人と違う人間だとアピールしたいだけなんですよ。本当に空気が読めない人は、自分が空気を読めているかどうかさえ、わからないはずだもの。

 ところで、子ども連れの話って、最近ネット上のいろんなところで話題になっているようなのですが、これってまさに「子どもを連れている人」と「周囲の人」の「空気」だと僕は思いました。どちらの責任というより、世間には不躾な親もいれば、理解のない周囲の人もいるのですから。そして、いちばんいい関係というのは、子供連れの側の「ご迷惑かけてすみません」という気持ちと、周囲の人の「子どもがいて大変なんだから、温かくサポートしてあげよう」という気持ちが行き届いて、お互いの配慮が緩衝材になっている状況だと思うのです。少なくとも、僕がもっと小さいころの日本というのは、大概において、そういう空気で満たされていたような記憶があります。親は「子どもがいるんだから騒ぐ権利がある」と主張し、周囲の人は、「自分はこの道を通る権利があるのだから、邪魔なベビーカーをどかす権利がある」と叫んでいるような世の中って、ものすごく住みにくいのではないでしょうか。

 「空気が読めない自分はカッコいい!」って思っている人もいるかもしれないけれど、「空気が読めないフリをして自分のやりたいことをやっている人」ほど、みっともないものはないんだけどなあ……

 僕は、自分に空気が読めているかどうか、あまり自信はありません。
 でも、空気を読もうという努力は常にしているつもりです。小心者なのでね。