琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「才能」の墓場から

 先日ある宴席で、同僚の女性にこんなことを言われた。「先生って、あんまり勉強しなくても成績良さそうなタイプですよね」と。そんなふうに実際に言われてみると、それはそれで悪い気はしない。もちろん、そういう言葉にはイヤミとしてのニュアンスが含まれている場合も多いのだが、彼女はそんな感じで言ったわけではなさそうだし。
 そんなふうに言われて、むろん悪い気はしない。そうか、そんなに頭良さそうに見える?なんて、心の中でニヤついていたりして。
 でもまあ結局、僕と彼女は似たような偏差値の大学を出て、一緒に働いているわけであり、僕としては、「いや、自分なりに勉強したつもりなんだけどねえ」なんて答えたのだけれど。

 僕の学生時代は「勉強ができる人たち」と過ごしていた時期が長かった。「天才的にできる人たちばかり」という領域ではなかったけれど、「天才的から中の上くらいの偏差値」の人たちばかりが、僕の周りにはいたわけだ。
 そして、僕は思い知らされた。「勉強しなくてもできる人」なんていうのは幻想なのだ。何も音楽をダウンロードしなければ、2GBのiPod nanoと30GのiPodに「内容」の差がないように、その効率に違いこそあれ、「インプットする作業」というのは必要だ。少なくとも、僕の周りの「できる人たち」は、みんな努力を惜しんではいなかった。
 僕のことを「やればできるのに」と評価してくれた人だって先生や同級生のなかにはいたし、自分でもきっとそうなのだと思い込んでいたのだけれど、結果的に、僕は「自分を搾り出すくらいに勉強した」ということは全く無かったのではないか、という気がしている。もちろん、その場その場ではボロボロになるまで勉強した夜もあったのだが、それでも、「臨界点」を超えることはなかったのではないか。少なくとも、エンジンがばらばらになるかもしれないようなアクセルの踏みかたはしていなかったのではないか。
 でも、それがたぶん、僕の「限界」だったのだ。そして、そういう限界を抱えていたがゆえに、僕は自分の能力や才能を、自分の中で腐らせてしまった。それは「余力」なんてものじゃなくて、単なる「持ち腐れ」としか言いようのないものだ。

 20歳くらいまではわからなかったのだけれども、「やればできるのに」に安住してしまった人間の末路というのはみじめなものだ。彼らは「やればできる」と信じて、「できることをわざわざやるなんてカッコ悪い」と、結局は何もやらない。そして、「本当はできない」ということを信じたくないばかりに、やろうという意欲すらなくなっていく。ガン検診を受けなかったらガンにならないというわけではないが、「知るのが怖いから」とガン検診を受けない人のように。
 僕が今になって思うのは、高校時代に半分尊敬し、半分バカにしていた「自分の能力というマヨネーズのチューブを、最後の一滴まで搾り出そうとする人」のほうが、自分より遥かに「有能な人間」だったということなのだ。とても悔しいけれど、そんなふうにチューブを絞る訓練をしておくというのは、人生のいろんなシチュエーションで非常に役に立つ。本当にギリギリのところで勝負を分けるのは、その「最後の一滴」だったりするものなのだ。
 僕の中には、まだマヨネーズが残っているはずなのだが、もう、その出し方がわからなくなってしまっているのだ。「やればできるはず」なんていうのは、30を過ぎれば、ため息のオマケにしか過ぎない。
 
 大人にとっては、「やればできる人」になんて、何の価値もない。問題は「やる人」か「やらない人」か、あるいは、「できる人」か「できない人」か、ただ、それだけのこと。
 「少年老い易く、学成り難し」使い古され、垢にまみれた言葉だ。
 でも、それはたぶん、悲しいくらい普遍的な真実。


 「才能」になんて、何の価値もない。評価の対象になるのは、ただ「作品」だけなのだ。
 

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