琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

北斗の拳 ラオウ伝〜殉愛の章 ☆☆☆

 パチスロ機の大ヒットをきっかけに再ブレイクしている『北斗の拳』、僕がよく行くレンタルショップでも、1週間レンタル可能になったばかりということもあり、ずっと貸し出し中だったのです。今回ようやく借りられたので観てみたのですが、うーん、正直微妙な作品だ……なんといっても、声優の変更が非常に大きくて、この作品ではケンシロウ阿部寛ラオウ宇梶剛士、そして新キャラ、レイナを柴咲コウが演じているのですが、テレビアニメ版に慣れている僕にとっては、「なんか何言っているのか聞き取りづらい……」という感じでした。そもそも、神谷明さんのモノマネをさせるのであれば、わざわざ阿部寛さんを起用する必要なかったのでは?そして柴咲さんは、どう考えても向いてないのにナレーションにまで起用されていて、柴咲さん本人にとっても観客にとっても悲劇的な結末になっています。
 そして、シナリオのほうもオリジナルっぽい雰囲気で宣伝されていたものの、原作の聖帝サウザー編を焼き直したもので新鮮味に乏しく、おまけにその「新鮮味」のために投入されたレイナという新キャラが全然『北斗の拳』の世界観にマッチしてないんですよこれが。原作でも盛り上がっていたところの「いいとこ取り」ではあるのですが、原作やテレビ版では語られていた「サウザーの師へのこだわり」が全削除されていて、この話だけ観ると「なんでケンシロウサウザーなんかに情けをかけてやったんだ?」と疑問が残ってしまいます。まあ、この作品自体が「観客は『北斗の拳』を一通り知っている」ことを前提に作られてはいるのでしょうけど。
 でもねえ、やっぱり観ているとそれなりに楽しめるし、感情移入しちゃうんですよねこの世界観に。映画化することによって原作の魅力を減衰させているのだけれども、原作がすごく面白かったので、結果的にはなんとか観られる作品になっている、という感じでしょうか。
 ただし、この作品のどこが『ラオウ伝』なのかは、正直よくわかりませんでした。もっとラオウに焦点を当てたオリジナルの話かと思っていたのに。

「ゲームの達人」作家のシドニー・シェルダン氏死去

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070131i105.htm?from=main1

 おそらく、今の30〜40代の日本人にいちばんよく読まれたアメリカ人の作家(「海外作家」と言い換えてもいいかもしれません)は、このシドニィ・シェルダンさんではないでしょうか。享年89歳。日本で大ブームになったのはそんなに大昔という印象はありませんから、もうそんな齢になられていたのか、という感じです。
 「超訳シリーズ」の第一弾として日本では1986年(アメリカでは1973年)に刊行された「ゲームの達人」は上下計750万部の大ヒットとなったのですが、当時は、この「超訳」というのはあまりにも原文を逸脱している(場面の順番を入れ替えたり、大幅に原文を省略したりしている)という批判もけっこうあったんですよね。僕は正直あまり好きになれなくて『ゲームの達人』くらいしか読んだことがなかったのですが、日本人にとっての「海外エンターテインメント文学」のひとつのイメージを作った人だと言えるのかもしれません。
 あと、シドニィ・シェルダンさんといえば、新聞にいつも大きく広告が載っていた『イングリッシュ・アドベンチャー』を思い出します。初級者コースは、『家出のドリッピー』!聴いているだけで英語が堪能に!なんていう殺し文句に載せられて、何度やってみようかと思ったことか。お金があったら実際にやっていたと思います。ちなみに、今回いろいろ調べてみたら、「超訳シリーズ」の出版社が『イングリッシュ・アドベンチャー』をやってたんですね(あの会社にとっての優先順位としては、むしろ逆?)、今まで知りませんでした。

「友達」について

http://d.hatena.ne.jp/akane17/20070128
↑のエントリを読みながら、僕は自分の「友達づきあい」について、ずっと考えていました。先日後輩の結婚式で一生懸命芸をやってくれたり、昔の悪行を暴露してくれたりしている「友達」の姿をたくさん見て羨ましくなってしまったからかもしれません。
 僕は三十数年生きていますけど、「親友何人いる?」って問われたときに、「3人!」とか「5人!」とか答えられないんですよね。いや、「ひとり」もいないかもしれない、悲しいけれど。
 僕はそんなに人から恨みを買うような人生は送っていないと思うのですが(このブログの一部の荒らしの方々は除く)、もともとあまり他人と濃厚な「友達づきあい」をすることが苦手ではあったんですよね。それでも中学生の頃は、いつも一緒に遊んでいた友人は何人かいたのですが、僕が引越してしまったり、進学して環境が変わったりしているうちに、いつのまにか音信不通になってしまいました。そもそも、僕は本とゲームがあれば独りでいることにあまり痛みを感じない人間なので、歳をとるにつれて、ひとり(+彼女)という状況で過ごす頻度が高まっていったのですよね。今の職場の人たちとはたまに一緒に飲みに行ったりもするし、仲だって「平均以上に(10点満点中の6点くらい)良い」とは思うのですが、そういうのは「友達」でもなんでもないわけで。それでも、インドア派の30代男にとっては、「一緒に遊ぶ友達がいない」っていうのは、普段はそんなに困ることではないんですよね。むしろ、毎日のように飲みに誘ってくれる人がいるような職場のほうが、かえって煩わしさを感じていましたし。僕の場合、「人に悪く思われたくない」という気持ちが先に立ってしまうので、どうしても相手に合わせるようなことが多くなって、そうしているうちに人に合わせることに耐え切れなくなり、それでも嫌われたくないからその相手と接することそのものを少なくしていく、というような付き合い方を繰り返してきたように思います。「君子の交わりは水の如し」という有名な言葉があるのですが、それは処世術としては正しいような気がする一方で、「君子」の結婚式や葬式には誰か来てくれたのだろうか?困ったときに誰か手をさしのべてくれたのだろうか?とか考えてしまうのも事実なのです。本当の「君子」であれば、そもそも、困ることそのものがないのかもしれないけどさ。
 考えてみれば、僕は昔から他人に何かを頼むのが苦手で、人に頼むくらいなら自分でやる、というようにしていたのですけど、その一方で、なんでも完璧に自分でやれるほどの能力があるわけでもなく、最後は誰かに頼んでしまう(そして、今まで僕が「悪いから」と思っていたのがバカバカしいくらい、大概の場合相手は快く引き受けてくれました)、というのを繰り返しているのです。
 僕は「友達」という言葉を誰かに対して口にするような人があまり好きではなくて、「俺たち友達だろ」というのは「だから○○してくれるよな」の前置きだとしか思えないのですが、最近つくづく考えるのは、もっと若い頃に迷惑をかけたりかけられたりすることがあっても、お互いにコイツだったらしょうがないか、と納得できるような友達を作るための努力をしておけばよかったなあ、ということなんですよね。でも、大人になってしまうと、ゼロからの「迷惑をかけたりかけられたり」するような人間関係を構築していくというのは非常に怖いことです。学生時代の友達にかけられる「迷惑」が貧乏神レベルだとすれば、困った大人の「迷惑のかけ方」っていうのは、本当にキングボンビーレベルなので。下手したらボンビラス星に連れていかれてしまいます。そして、人との付き合い方のスタンスというのは、そんなに急に変えられるようなものじゃない。

 角田光代さんの『対岸の彼女』の本のオビに、

 おとなになったら、友達をつくるのはとたんにむずかしくなる。働いている女が、子どもを育てている女となかよくなったり、家事に追われている女が、未だ恋愛をしている女の悩みを聞いたりするのはむずかしい。高校生のころはかんたんだった。いっしょに学校を出て、甘いものを食べて、いつかわからない将来の話をしているだけで満たされた。けれど私は思うのだ。あのころのような、全身で信じられる女友達を必要なのは、大人になった今なのに、と。

 こんな文章が書かれていて、僕はとてもとてもせつなくなりました。本当に「友達を必要なのは、大人になった今なのに」。
 僕にはもう、「友達」を作ることはできないのかもしれません。

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