琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ただ、君を愛してる ☆☆☆☆

いま、会いにゆきます』原作者で知られる市川拓司が、広末涼子主演の『恋愛寫眞Collage of Our Life』に触発されて書いた、もうひとつの物語を映画化。主人公ふたりの役名や、写真がつなぐ関係、NYで発覚する真実など、ポイントとなる要素は広末版と同じだが、全体にロマンチックな度合いが高まっている。大学で知り合った誠人と静流は、それぞれが抱えるコンプレックスに惹かれ合うかのように仲良くなる。誠人の趣味であるカメラにも興味を示す静流。やがて、別れ別れになったふたりの運命は、NYでひとつになるのだが…。(Amazon.co.jp)

 ああ、泣く子と宮崎あおい(いま変換したら「宮崎蒼井」になってしまって、それも一理あるなと思いつつ)には勝てん! こういう「痛々しいくらいまっすぐな女の子」を演じているときの宮崎あおいさんは、本当に筆舌に尽くしがたいくらい魅力的です。表情も、仕種も、言葉も、すべてが特別で、この人は「ナチュラル・ボーン・女優」なのではないかと感動してしまいます。
 玉木宏の不器用な男の演技には、ついつい「千秋さま〜!」と声をかけたくなってしまうのですが、とにかく甘くてせつなくて美しいラブストーリー。難点を挙げれば、観ているとつい誠人に、「おまえバカ?目の前に宮崎あおいがいて、『いいよ』って言ってクネクネしてるのに、何スルーしてるんだよ、そのチャンス俺にくれ!」と言いたくなってしまうことでしょうか。いや、世の多くの男性にとっては、計算高そうでウエディングドレスのショーとかに付き合わされるみゆきより静流なのではないかと。というか、黒木メイサ<<<<<宮崎あおい、ですよね絶対。むしろ、キャラとしてはみゆきのほうがはるかにありえないというか、痛いような気もするし。そういう意味では、この映画の宮崎おあいは、この役柄には、ちょっと「魅力的すぎて合ってない」のかもしれないんだけどさ。

 ストーリーとしては、「お父さんかわいそう!」とか「捜索願出せよ!」とかつい言いたくなってしまうし、サビの部分を先につくってしまった音楽のように、あの「一枚の写真」を劇的に観せるために、かなりそれまでの流れが強引になっていて「こんなこと現実にはありえない!」話になってしまっているのですけど、にもかかわらず、これだけ見とれてしまう映画になっているのは、ひとえに宮崎あおいさんのおかげです。とりあえず、宮崎あおいさんand/or玉木宏さんが好きな人には、ぜひオススメしておきます。ストーリーはともかく、この二人の姿を観ているだけでなんだか得した気分になれます。ほんと、「キャスティングの勝利」ですよこの映画は。逆に「宮崎あおい、うざっ!」って人は、関わらないほうが無難かも。

 そうそう、エンディングテーマの大塚愛さんの『恋愛写真』もすごく良いです。エンディングだけ繰り返して観たくなるくらい。観終えてから、僕の頭のなかで、「たーだーきみをーあいしーてるー」というフレーズがずっとリフレインしております。大塚さんのベスト版にも入れてくれたら良かったのになあ。

恋愛写真

恋愛写真

WEB上の「さまよう悪意」

毒吐き注意。(by 「31才オンナの本音(4/2)」)
↑の文章を読んで、僕はなんだかいたたまれない気持ちになってしまいました。「インターネットでは、見ず知らずの今まで接点が無かったような人たちとも繋がることができる」というのが、日本でインターネットが爆発的に普及していった時期のスローガンだったのですよね。でも、今になって考えると、「今まで接点が無かった人」との「繋がり」は、必ずしもメリットばかりをもたらすわけではありません。僕の実体験からは、むしろ、マイナス面の方が大きいのではないかと思うくらいです。
基本的に、こうやってネット上に「日記」や「ブログ」を(「会員制、とかではなく)公開している以上、「誰に読まれても文句は言えない」と僕は考えています。もちろんそれは、「誰にどんなことを言われても文句は言えない」と同義ではありません。僕はときどき言及してくれたところに言い返したりしますし、リンク無しでもあからさまに自分のことが誹謗中傷されていると感じたときには、こちらからあえて言及したりもします。ただ、それが「うまいやりかた」かと言われるとそんなことはなくて、基本的には「スルーする」のがいちばん利口だなんてことは百も承知なんですよね。どうしてもそういうくだらないことをやらないとおさまらないような心を抱えているから「やるしかない」だけで。「読んだら負けなんですよ」という眞鍋かをりさんの言葉は、まさに至言だと思います。

 しかしながら、WEB上に文章を公開していると、本当に理解不能の「悪意」をぶつけられてしまうことってあるんですよね。上でリンクさせていただいた日記では、ある人の日記を「エンピツ」という日記システムの「My登録」という「お気に入り」に入れて、ただ読んでいただけにもかかわらず、

ただ読んでただけなのにその人に思いっきり嫌われて、日記でかなり攻撃的な事を書かれた。底辺の人間を見て笑いたいのか、とか、そんなに自分を見下して娯楽にしたいんだったら金払え、だとか。

 というような「言われもない攻撃」を受けています(もっと酷いことも書かれているようなのですが、それはリンク先を御参照ください)。
 もうかなり昔の話なので書きますが、そういえば僕のところにも「医者って最低、信じられない!」という「医者に遊ばれて捨てられた女性」からのメールが来たことがあります。でもさ、そんなこと僕に言われても困っちゃうわけですよ。僕があなたを酷い目にあわせたわけじゃないし、「医者だから」悪いというよりは、その男の個人的な問題、あるいはそんな男を選んだあなたの問題なのではないかと。でもね、この手の「悪意」って、けっこうやって来るんですよ本当に。医療ミスがテレビで大きく報道されたときにもよく来ます。

 それって、相手、間違えてない?
 それ以前に、あなたが誰かを責めるべきことなの?

 でもね、宮部みゆきさんの『名もなき毒』じゃないけれども、そういう「八つ当たり的な悪意」というのは、確実に存在するのですよ。誰かがビル上から石を落とせば、顔も見たことが無い通行人が死ぬ可能性は十分にあるのです。極端な話、ポル=ポト派みたいに「知識人は皆殺しだ!」みたいな人だっているのですよ。知識人って、田舎の大学をなんとか卒業して、こうしてネットの片隅で毎日愚痴ってるだけのオッサンのどこが「知識人」なんだよ、とボヤいていても、相手の目にはもう、僕の顔とこのブログしか映っていないのです。そして、そういう人の大部分には、「言葉が通じない」。
 誰かが単にむしゃくしゃして乱射しただけのマシンガンの弾にだって、当たれば人は死ぬのです。
 そして、誰かが死んだあとで彼らは言うんだよなあ、「殺すつもりはなかった」って。

 WEBに日記や文章を公開するというのは、本当に怖いことなのです。「繋がれなかった人と繋がれる可能性」がある一方で、「繋がらないほうがいい人と繋がってしまう危険性」もあります。「話せばわかる人」としか接点が無かった人にとって、「話しても聞く耳すら持ってくれない人」「自分の解釈でしか生きられない人」とまで直接繋がらなくてはならないというのは悲劇なのかもしれません。
 こういうのって、「売り言葉に買い言葉」で罵り合っていくうちに、遺恨というのはどんどんエスカレートしていく一方なので、「先に黙ってしまったほうが勝ち」なんでしょうけど、実際にヒートアップしてしまうと、なかなかね……

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