琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

ブロガーとして、自分の「キモさ」と向き合うということ

ブロガーは自分のキモさとどう向き合っているの?(by 住太陽(07/10/17))

 おそらく、この『琥珀色の戯言』をキモいと感じている人は多いだろうし、僕自身ですら、こうして自分語りを何年にもわたって繰り広げているのは、かなりキモい人間だろうな、という気はしています。
 いや、これが10代後半〜20代前半くらいであれば、「太宰治とか哲学書にハマっている文学青年」みたいなもので、「ま、たいていみんなが感染する麻疹みたいなものだな」と苦笑とともに生温かく見守られるだけなのではないかと思うけれど、もう人生半分終わってる人間ですからねえ、僕の場合は。
 そもそも、僕自身も自分のサイトをはじめる前までは「うわっ、不倫日記なんて気持ち悪い!」とか、「この絵文字だらけのラブラブ日記は何なんだ、おえーっ!」とか思っていたわけですよ。むしろ「ネットに自分の私生活を垂れ流すような人間」を軽蔑していたのです。お前ら脇が甘いよ、ってさ。

 しかし、実際に自分で書くようになって、ズッポリとハマってみてから考えるに、結局のところ、僕自身に関しては、「周りからみてキモかろうがなんだろうが、書かずにいはいられなくなってしまった」としか言いようがないのです。そりゃあね、今の僕を7年前の僕が見たら、絶対にものすごくイヤになるだろうし、「もしもボックス」とかを開発するために勉学にいそしむようになったかもしれませんけど。

 考えてみると、僕は別に「ブログを書くようになったからキモい人間になった」というわけではなくて、昔からキモい人間だったのです。内向的で、物事をネガティブに考えることが「頭がいい」のだと勘違いしていたし、家で本ばかり読んでいて、人の愛情を素直に受け入れることができなかった。
 それでも、現実生活において、僕は自分のそういう「キモさ」を周囲に気づかれないように必死でした。そんな自分を見せたら、いまよりいっそう自分の居場所がなくなってしまうし、みんなに嫌われてしまう、そんな危機感をずっと抱いて手探りで生きてきたんですよね。

 ネットに書くようになって、いちばん嬉しかったことって、実は「ありのままのキモい僕(と、その僕が書いた文章)でも、受け入れてくれたり、読んで褒めてくれたりする人がいるのだ」ということでした。

ブログを書くという行為が、純粋に自分の考察や行動を記録することだけを目的とした行為であって、承認欲求や自己顕示欲と完全に切り離されたものであるなら、それは日記帳やチラシの裏など、非公開の場でやればいいだけのこと。それをわざわざ、Webというオープンな場所で嬉々として展開しているというのは、どんなに高尚な理由付けをしたとしても、やはりそこはかとないキモさは漂うものだと思います。

 これは本当にその通りだと思いますし、間違いなく僕はキモいです。自分でも「こんなことやってる間に勉強なり研究なりやっていれば、もっとマシな人生になってるんじゃないの?」って考えることはあります。読んでいる人たちも「こんなの書いている暇があったら、もっと真面目に働けよカス!」とか思っているんじゃないかな、と想像することもあります。それを突き詰めると辛すぎるので、だいたい途中で思考停止するように心がけてはいますが。
 ただ、その一方で、こうやって「認めてもらえる場所」があるおかげで、僕はなんとか今の場所に踏みとどまっていることができるのかもしれない、とも感じているのです。
 いわば、「本質的にキモい僕が、キモい自分でいることが許される数少ない場所」なんですよねここは。
 要するに、「何かのために書く」っていうよりは、「こうして書かずにはいられない」のだよなあ。

 別にいいよ、キモくてもさ。

 ……なんてことを言えるようになったのは、本当に「ブログのおかげ」だと思います。
 まあ、こういうのって単なる「開き直り」なのかもしれないし、それが人生においてプラスになっているかどうかはわからないのですが。
 こうして「発散」することができなかったら、もしかしたらもっと自分に有益な方法で、「克服」できていたかもしれませんし、いまだに僕は自分のサイトやブログのことを直接知り合いに話したことはないし、誰かが見ている前で更新することも恥ずかしくてできないしね。


 ところで、以下はちょっと余談なのですが、僕が思うに、ブロガーの「キモさ」の源泉というのは、「物陰から他人を撃つような卑怯さ」を感じさせるところにあるのではいかと。
 『しょこたんブログ』とか眞鍋かをりさんのブログなんて、もし書いている人がどこの誰かわからなかったら、かなり「キモい」と思うんですよ僕は。ところが、みんなはテレビや書籍などでの彼女たちを「知っている」から、「あの人にもこんな一面が!」と大喜びしながら読んでしまうのです。彼女たちのスゴさって、「普通は顔を出して書かない、あるいは書けないようなことを、あえて堂々とやっている」点ではないかと。「実名」でブログをやっている人って、内容に「腹が立つ」ことはあっても、「キモい」って感じることはあまり無いような。
 逆に、多くのブロガーは「こいつこんなに偉そうなことばっかり言ってるけど、絶対こんなことはリアルでは言ってないんだろうな……」と思われますし、そういう「一見普通に見える小心な人間の過剰になりすぎた内面の自意識や自己顕示欲」というのは、やっぱり「キモい」というか、それを読んだ人を不安にさせるもののような気がします。「俺の隣の席のこいつも、もしかしたら……」なんて想像すると、やっぱりちょっと薄気味悪いです。


 でもね、僕が自分のサイトをはじめて作った7年前に比べたら、現在の「ブログで書いていることの気恥ずかしさ」なんて微々たるものですよ、たぶん。
 「パソコン通信をやっている」というだけで「オタク認定」されていた時代もあったし、25年前は、「テレビゲームというもので遊んでいる」というだけで、同級生の女子たちから、「暗ーーーい!!」って白眼視されていたんだからさ。

 まあ、正直なところ、テレビゲームもインターネットも、周りの女子から「それってキモい!」と軽蔑されていた時代のほうが、僕にとっては面白かったような気がしてならないのですけどね。

おもひでぽろぽろ ☆☆

おもひでぽろぽろ [DVD]

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時は1982年、27歳のOLタエ子が山形の義兄の実家へと一人旅し、そのさなかにかつて小学校5年生だったころの自分を回想していく。岡本螢と刀根夕子による原作コミックは、小学校時代のみを描いているのだが、高畑勲監督は新たにOLのヒロインを設定し、ふたつの時代を行き来させながら、ひとりの女性の生きざまを露にしていくと同時に、彼女が行き着いた村で行われる有機農業の美徳を説きながら、田舎と農業を礼讚していく。

 うーん、アニメとしての映像のすばらしさは認めます。しかし、今井美樹柳葉敏郎そっくりに描かれたキャラクターと2人の素の喋りには当時からすごく違和感があったのですが、公開から15年経った今観ると、その違和感はさらに増しているような……

 今回あらためて見直して思ったのですけど、僕はこの映画、どうしても受け入れられません、「良い映画」なのかもしれないけど、すごく不快。
 田舎の人たちの「善良さ」だけが描かれているようだけど、結局彼らは「農家の嫁」を求めているだけにしか僕には思えないんですよね。いきなり「トシオの嫁に」なんて言い出す、ああいう無遠慮さって、田舎に引っ越してきて、その濃厚な人間関係に苦しんだ僕にとっては、ものすごく気障りなんです。あのばあちゃんがタエ子に耳あたりの良いことばかり言っているのを聞くたびに「そんなのに騙されるな、あいつらは『釣った魚に餌はやらない』ぞ」というような、ほの暗い憤りが、僕の心に浮かんでくるのですよ。
 この映画で描かれている「田舎礼讃」って、なんかすごく上っ面なものだとしか思えないんだよなあ。

 押井守さんが、著書『立喰師、かく語りき。』のなかで、こんな辛辣な宮崎駿評を書いておられます。

琥珀色の戯言―『立喰師、かく語りき。』

 押井:この間の『ハウルの動く城』だって、「CG使ってないんだ」って宮さん(宮崎監督)は言い張ってたけど、現場の人間は使いまくってるよ。あの人が知らないだけだよ。まるきり裸の王様じゃないか。それだったら、自分の手で(CGを)やったほうがよっぽどましだ。いや、わかりやすくて面白いから、つい、宮さんを例に出しちゃうんだけどさ(笑)。

 いかに中性洗剤使うのやめたって言ったところで、結局は同じことじゃない。宮さん、別荘に行くとペーパータオルを使ってるんだよ。そのペーパータオルを作るために、どれだけ石油燃やしてると思ってるんだ。やることなすこと、言ってることとやってることが違うだろう。そこは便利にできてるんだよね。自分の言ったことを信じられるってシステムになってるんだもん。

 まあ、『おもひでぽろぽろ』は高畑勲監督、ではあるのですが、この映画って、まさに「自分はペーパータオル使いながら、周りには自然保護を訴えている作品」のような気がするのです。実際に「田舎や農家のドロドロした部分」を描くわけにはいかないっていうのはあるんだろうけどねえ。

立喰師、かく語りき。

立喰師、かく語りき。

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