琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

ブログと「常連客」


ブログと客 - jkondoの日記

 うーん、「有名人ブログ」だったら、こういうスタンスが「正しい」のではないかと思います。
 というか、一般のユーザーがやっているブログでは、1ヶ月にユニークユーザーが3000人も増えるなんてことは、ほとんどありえない話です。

 ここに、ふたつの「人気ブログ」があります。
 『Ken's blog:志村けん公式ブログ』と皆様お馴染みの『しょこたん☆ぶろぐ』
 この2つのブログを比較して思うのは、「やっぱり、中川翔子さん(眞鍋かをりさんでもいいです)のほうが、『仕掛けてるよな』ということです。
 「仕掛ける」って言葉については、↓を参照。先日の第138回芥川賞の「選評」より。

池澤夏樹

「なぜか最近の候補作には、寝そうで寝ない男女の仲をゆるゆると書いた話が多い。今回で言えば津村さんの『カソウスキの行方』も中山さんの『空で歌う』も山崎さんの『カツラ美容室別室』もそうだった。自分の日常に近いと思って親近感で読む読者がいるのかもしれないが、小説というのはもっと仕掛けるものではないか。

 率直に書いてしまえば、志村けんさんのブログって、もし書いているのが志村さんじゃなかったら、有名人同士の交友が書かれていなかったら、僕は絶対に興味を持てないと思います。そういう「固有名詞的なもの」を排除すれば、おっさんが飲みに行ったり映画のDVDを観たりした記録でしかないので。
 それに比べれば、中川さんや眞鍋さんは、圧倒的に「読む人を楽しませようとしている」のです。これはもちろん、彼女たちがこういうコミュニケーションの形態を好んでいるからでもあるのですが、その一方で、「それほど有名ではない芸能人」としては、淡々と日常の記録をつけていくよりは、読者に対して積極的に「興味を引く」戦略を選んでいる、ということなんですよね(ちなみに僕は、「有名人で淡々と書いている人」のなかでは、この方の日記が好きです)。

 「有名人」ですらそうなのですから、とくに有名でもないオッサンブロガーというのは、「日常日記にシフトしていこうにも、そんなことしたら3日後には閑古鳥が大合唱してしまう」のですよ。ほんと、「常連さん」を増やすというのはものすごく難しいし、増えたと思ったら「ウォッチャー」ばっかりだったりするわけです。
 「もうホットエントリ狙いで一見さんを増やさなくてもいい」というような「大店」って、ブログではごく一握りだと思うんですよ。
 大部分は、「ときどき注目されるようなエントリを挙げて、一過性にでも人を集めることによって、なんとか『現状維持』できているブログ」なのではないかなあ。「唯一無二」の高級料亭なら、じっと構えているだけでいいのかもしれませんが、ありきたりな街のレストランとしては、ときどきはアドバルーンのひとつも上げておかないとジリ貧になっていく一方。
 基本的にブログって、更新していないとあっという間に忘れられてしまう存在だから。

 ただ、長年「街の目立たないレストラン」をやっていると、定期的に来店してくれて、ウチの料理を褒めるでもけなすでもなく、お金を払ってさらりと帰ってくれるお客さんというのは、本当にありがたいものだなあ、と思うのです。
 「ずっと続けて来店してくれる」というのは、どんな一時的な「絶賛」よりも、はるかに誠実な「評価」なのです。

 僕がときどき行くラーメン屋の壁に

 よい店は味を変えない よい客は店を変えない

っていう標語が貼ってあります。
たぶん、そういうのが、お互いにとって「理想の関係」なんだろうけれど、やっぱり店側としては、「マンネリ化」を恐れるし、客側も「浮気」したくなるときもあるはずです。
本当は、そういうときこそ、店側は、「自分の味を守る」べきなのでしょうね。
ダメになる店のパターンって、

開店から時間が経ったり、競合店ができたりして、ちょっと客足減る→定番モノより不味い『新メニュー』登場→評判悪化→さらに「奇抜なだけ」の新メニュー投下→閑古鳥

というネガティブスパイラルを辿ることが多いのですから。
でも、「そんなことわかっている」はずなのに、みんな同じ失敗を繰り返すのだよなあ。
そもそも、スタート時点での「味」が正しいという確信を持てる人はそんなにいないだろうし……
 
 個々のブログの話としてだけではなく、「ネガティブブックマーカー退治」よりも、「そういう『沈黙の常連客』たちをいかに繋ぎとめるか」を模索していくほうが、「はてな」の将来にとって大事な気が僕にはするんですよね。

「でも、これ実話?」


ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話*ホームページを作る人のネタ帳
↑のエントリと、このエントリへの「はてなブックマークでの反応」について。

僕はAmazonリアル書店も頻繁に利用するのですが、確かにどちらも一長一短あり、という感じです。
ただ、地方都市在住者としては、最近の「中規模書店」での文芸書の壊滅っぷりには愕然とするばかりなのですけど。
「ジュンク堂書店」の田口さんが書かれているようにジュンク堂などの大型書店では、「棚」というのは担当者の「作品」なのですが、地方の一般的な「本屋さん」では、すでに「個性を発揮しようが無い」状態なわけで。

ちょっと「気持ち悪い」と思われるかもしれませんが、僕にとって、リアル書店に行く最大の理由は「好きなものに物理的に囲まれることができる」からなんですよね。そして、「世の中には本が好きな人がこんなにたくさんいるのか」と再確認することもできますし。そして、書店員さんが書いたPOPを見て、「これ、この店のどの人が書いたのかなあ」なんて想像してみるのです。ちょっと官能的なシーンがある本だったら、「おおっ、このお姉さん(っていっても僕より年下)が、この本をっ!」などと、妄想にふけってみたりして。
あまり人と接するのが得意じゃないけれど、完全な孤独にも耐えられない僕にとっては、「書店の空気感」が「ちょうどいい」のですよね。

逆に本屋と言うのは、ほぼ全ての本が平等であり、どれを買うかは本人が調べ、考え、選び、そして購入に至ります。

 ニュースサイトに「紹介順」があるのと同様に、書店もディスプレイのされ方、あるいは、「どの本が書店に置かれるか」によって、かなりの差別化がされていますし、僕はむしろ、「ここの書店員さんはどんな本をお薦めしているのだろう?」と思いながら書店をぶらぶらすることが多いです。
 ただ、「ネットで評価されている本」っていうのは、なんというか「勉強になる本」に偏りがちなんじゃないかな、とも思うんですよね。
 
 僕にとっての書店の最大の強みっていうのは、「物質としての本」がたくさんあるという「空間の魅力」なのかもしれません。
 普通に考えればどこにでもあるような新刊書目的で行くのなら、混んでてだだっ広い大型書店に行くよりは、近所の本屋さんのほうが「効率的」なのですが、ついつい大きな書店に行ってしまうのは、やっぱり「物質としての本が好き」だからなのかなあ。
 その一方で、「普通の本屋さん」がバタバタと潰れている、というのも悲しい現実なんですが。


 そうそう、この話の真偽についてなのですが、この『私はレンタルお姉さん』での記述によると、

1人のニートに、外に出て行く気を起こさせて、次のステップに移らせるまでの目安は1年。

 私は基本的に、こんなアプローチをしています。

 最初は手紙やハガキ。1通、1通手書きで、読んでもらえるように工夫をしながら、自己紹介やニュースタート事務局についての簡単な紹介などを書いて出します。週に1回の割合で、1ヵ月ほど出し続けることが多いです。

 次は電話。出てもらえないことも多く、あまり話しが弾むということはありませんが、電話に出てもらえたら、日常の生活の様子を聞いたり、訪問の予告などをしています。

 電話に出てもらえない場合も、最初の手紙から1ヵ月半から2ヵ月が経過したころには、初回の訪問をするようにしています。訪問は、近いところなら週1回、遠方なら月1回または月2回と、状況に応じた周期になります。

 訪問活動では、私に慣れてもらうことが先決で、警戒心が解けたら、一緒に外出したりもします。私1人ではなくだんだんと、他のスタッフや寮生などにも同行してもらい、「人との楽しいコミュニケーション」を重ねて、ある程度、安心感をもってもらえたところで、寮に入る、アルバイトを始める、学校へ戻るなど、目標とする次の行動を起こすように促して、本人がそれを行動に移したところで、私たちの仕事は終了となるのです(なかなか、そう順調にはいかないものですが)。

 「専門家」でもこのくらいのペースでやらないと「適応」は難しいと判断しているということなので、いくら「書店に興味がわいた」といっても、そんなに簡単に外に連れ出せるものなのか?とは思います(そのあたりの経過は、端折っているのかもしれませんが)。ましてや、大規模書店なんて、「人だらけ」なのだし。


 しかし、この話とこの話に対する「ブックマーク」でのリアクションを読んでいると、こんなことも考えてしまうんですよね。
 この話が、「フィクション」であったとしたら、「全く価値が無い」のだろうか?
 僕たちは「感動的な話」「いい話」だと思えば思うほど、それが「事実」であることを望みがちですし、ネット上では、その傾向は顕著のようです。「感動的なフィクション」というのは、どんどん肩身が狭くなっていっている感じで、誰かが「いい話」を書くと、誰かが「でも、これ実話?」って言い始めるんですよね。
 赤の他人である読者にとっては、それが実話か作り話かによって、何かの「現実的な影響」を受けるわけではないのに。

 僕は最近、「よくできたフィクションを消化し、必要な栄養分だけを自分に取り込む力」が、どんどん失われてきているのではないか、と感じているのです。どんな「実話」だって、そこに「語り手」が介在している限りは、なんらかのフィルターがかかっているはずなのに。
 「ノンフィクションだから感動してもOK」「フィクションだから騙されるな!」という「二者択一」こそが、逆に「自己啓発セミナー的な落とし穴」なのです。
 それが「物語」である限り、「ノンフィクション」も「フィクション」も受け手にとっては、「ひとつの情報」にしか過ぎません。大事なのは、「それが事実かどうか」よりも、「その話から、何を感じ、何を生かしていくか」なのです(あるいは、「楽しければ事実でも嘘でもどっちでもいいや、というスタンスもあり)。
 「実話じゃないから意味がない」と全否定するというのは、「実話だから鵜呑みにする」というのと、結局のところは似たようなものだと思われます。

 ひろゆき氏に「嘘を嘘だと見抜けないような人は、『2ちゃんねる』を使いこなせない」という名言がありますが、現代は、「実話であるということが過大評価されすぎている時代」なのかもしれません。


わたしはレンタルお姉さん

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