琥珀色の戯言

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ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感 ☆☆☆☆

ゲルニカ  ピカソが描いた不安と予感 (光文社新書)

ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感 (光文社新書)

二〇世紀の西洋美術を代表する『ゲルニカ』は、描かれた当時、多くの人に衝撃を与えた。この作品は、一九三七年という、ナチズムやロシア社会主義、フランス、ドイツ、イギリスなどの列強の思惑が交錯し、スペインでは内乱が激化するという、ヨーロッパが不安と緊張に包まれた時代に生み出された。
しかし、『ゲルニカ』には絵画としての「異質さ」が漂う。そして、これこそが、不安が先鋭化しつつある私たちを今でも虜にする魅力でもあるのだ----。
本書では、その制作過程を丹念に追いながら、美術史、歴史画、戦争画などの観点からピカソが直感した「予感」に迫る。さらに、私たちの美術鑑賞のあり方、一枚の絵を見つめるということの本質にまで思いを巡らす。

ちなみに『ゲルニカ』というのはこの絵です。


 「日本でいちばん有名な絵」は、おそらく、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』だと思います。そして、2番目もレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』(『ダ・ヴィンチ・コード』の影響もあるのでしょうけど)。この2つの絵は、たぶん「誰でも知っていて、すぐにどんな絵か思い浮かべることができる作品」でしょう。
 そして、その次に有名な作品として、ムンクの『叫び』と並ぶくらいの知名度を誇るのが、この『ゲルニカ』なのです。
 しかしながら、僕はこの『ゲルニカ』という絵のタイトルと、この絵をパブロ・ピカソが「戦争の悲惨さを訴えるために描いた」という情報は知っていても、「じゃあ、『ゲルニカ』ってどんな絵なの?」という問いに対して、すぐに答えることはできなかったんですよね。

 この本を読んであらためて感じたのは、「たった一枚の絵」から、こんなにたくさんのことが考えられるのか!という驚きでした。

 そして、僕がいちばん印象に残ったのは、この『ゲルニカ』の製作過程を製作当時の写真とともに解説している章だったのです。
「意のままに筆を操って自由奔放な絵を描いた」と思い込んでいたピカソという画家は、この『ゲルニカ』のひとつひとつのパーツ(牡牛や兵士、赤ん坊を抱いた女など)について、執拗なまでに「習作」をくり返し、それぞれのパーツの構図や表情を調整し、絵全体の構図を決め、最終的にこの絵を完成させていたのです。そこには「奔放な芸術性」だけではなく、「緻密な計算」や「どうすればより良い作品になるのかという迷い」の跡が残されていました。考えてみればごくごく当たり前のことなのですが、「芸術家の一瞬のひらめき」だけで、傑作が完成するわけではないのです。

 巨大な画面に戦争の悲惨が描かれる。ここには英雄も出てこないし、戦いそのものも描かれていない。それでもなお『ゲルニカ』は20世紀に描かれた「戦争画」としては、先の諸例と比較するまでもなく、もっとも有名な「戦争画」なのだ。

 もっと、「戦争そのもの」を描いている絵はたくさんあるはずなのに、「もっとも有名な『戦争画』」である『ゲルニカ』。「反戦のシンボル」にまつりあげられてしまったがために、世界中を巡ることになった因縁を持つ傑作。
 この本を読んで、折り込まれている『ゲルニカ』の写真を見て、僕が子どものころ「なんでこんな落書きみたいな絵がすごいんだ?」と思っていたピカソの絵の「凄さ」が、ようやくわかってきたような気がしました。「漠然としたイメージの塊」だからこそ、『ゲルニカ』は、写真以上のインパクトがあるんですよね。

 パブロ・ピカソゲルニカ』。スペイン・マドリードの国立ソフィア王妃芸術センター所蔵。
349.3cm×776.6cm、1937年作。
 巻末に折り込まれている『ゲルニカ』の写真だけでも、この本の値段分の価値はあるかもしれません。
 僕も死ぬまでにぜひ、実物を見たいと思っています。

「距離感」というようなもの。


 テレビの企画などで、「有名ミュージシャンが、あなたひとりの前で歌ってくれます」だとか、懸賞で「抽選に当たった、20名の前だけでのライブ!」とかいうのがあるのだが、僕はそういうのを目にするたびに、「いくら好きなアーティストでも、こういうシチュエーションで聴くのは辛いんじゃないかな」と、つい考えてしまう。もしそんな状況になったら、たぶん、観客としては、ものすごく嬉しそうな表情をしたり、幸せそうな気分になったりしなければならないだろうから。
 そして、「一生懸命、楽しそうに、嬉しそうにしなければならない」という強迫観念めいたものは、たぶん僕の顔を引きつらせ、曲そのものよりも「今、自分は楽しそうな表情になっているのだろうか?」というような自問自答ばかり繰り返すことになるだろう。

 仕事で実習の学生と一緒に行動することがある。何も知らない学生に細々としたことを教えるというのは、けっこう手間がかかる割には自分に返ってくるものが少ない仕事だ。とはいえ、偉い先生と部屋に二人っきりで仕事、というような状況で、彼らが仕事を見学に来ていたりすると、非常に気が楽になるのも事実だ。二人だと会話の糸口が見つからなかったり、張り詰めていて息苦しかったりする空気も、学生というエッセンスが混じることによって、けっこう和らいだりするのだ。ときどき質問をして「こんなことも知らないのかまったく!なんて軽くいじってみるのも(上の先生によっては、かえって緊張感を高めるようないじりかたをする人もいて、それはそれで困るのだけど)アクセントになったりするし。
 もちろん僕とその上司の仲が悪いわけではなくて、やっぱり上司と部下という関係には、一定の距離感というのが必要で、そういう「馴れ馴れしくしすぎてはならないけど、よそよそしくなりすぎてもいけない」という距離をキープするのは、一対一だとなんだか僕にはひどく難しく思える。
 中学校くらいのとき、いつも一緒に遊んでいるグループの中で、そのうちの誰かと二人きりになると、仲がいいはずなのに、何を喋ったらいいかわからなくなってしまう、そんな感じ。実は、ふだんはあまり喋らないような「目立たない人」がひとり欠けてしまっただけで、場の雰囲気がガラッと変わってしまいことは少なくない。

 よく行く店で「常連」という扱いをされるのもイヤだ。定食屋で「これ、サービスね」ということで、ちょっとした料理が出てきたりすれば、そういう「善意」に対しては、やっぱりこちらも「善意」で返さなくてはなあ、なんて思し、そういうのって、かなりプレッシャーなのだ。美味しくもない料理でも美味しそうに食べなければならないし、たとえ美味しかったとしても、お愛想のひとつも考えなくてはならないのは、非常に辛い。世間話などされても、非常に困る。床屋にしても、「なるべく、早く、喋りかけられない」というのを重視しているくらいだ。

 まあ、僕の場合は平均より「遠め」が、他人との心地よい距離なんだろうと思うけれど、ブログとかをやっていると、ちょっと困惑することが多いのも事実。相手が悪いというのではなくて、そういうギャップみたいなものは、文章で伝えるのは難しいものみたいだから。
 とはいえ、無視されると寂しいし、まったくもって自分とか他人というのは、よくわからないものだなあ、と思う。要するに、「自分から声をかける勇気はないけれど、向こうのほうから声をかけてくるような女の子じゃダメ」というような、出口のない堂々巡りを繰り返している、というわけだ。

 こんなことをわざわざ書いて発信しているのには、やはりそれなりの「理由」があるには違いないのだけれど、こんなの、どう反応していいか読んだ人もわからないよね。

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