琥珀色の戯言

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ケータイ小説は文学か ☆☆☆☆


ケータイ小説は文学か (ちくまプリマー新書)

ケータイ小説は文学か (ちくまプリマー新書)

内容紹介
ケータイ小説を大胆にも文学として認め、その構造を徹底分析。小説の「読み」「書き」に起こる異変を解きあかしポスト=ポスト・モダンという新しい境地を見出す刺激的アプローチ。

目次
1 ケータイ小説と文学
2 ケータイ小説とリアリティー
3 「新しい国語教科書」のモラル?
4 何が少女をそうさせたのか
5 男たちの中の少女
6 ポスト=ポスト・モダンとしてのケータイ小説

 僕のような「ケータイ小説は読まないのに、ケータイ小説について語りたい人間」にとっては、この本は格好のテキストなのではないかと思います。
 僕がこの本を読んでいちばん印象に残ったのは、著者の石原千秋さんが、「ケータイ小説」における、「リアル」と「リアリティー」について書かれているところでした。

ケータイ小説に「リアリティー」はない。そこにあるのは「リアル」である。

(中略)

 日本語に訳せば、「リアル」は「現実・本物」で、「リアリティー」は「現実らしさ・本物らしさ」となる。僕たちにとって「現実(リアル)」は科学的に解明されたものとしてある。仮にいまはまだ明らかになってはいなくても、将来にかけて科学が解明できないものはないと考えられている。したがって、いま僕たちが存在しているこの世界の全体、宇宙の果てまでが僕たちの現実となる。宇宙ロケットは何も想像の世界へ向けて飛んでいるわけではない。現実の世界へ向けて飛んでいるのだ。
 しかし、「現実らしさ(リアリティー)」はそういう感覚ではない。たとえば、ジョージ・ルーカス監督の映画『スター・ウォーズ』の宇宙戦争が現実らしく見えること、スティーブン・スピルバーグ監督の映画『ジュラシック・パーク』に登場する恐竜たちが本物らしく見えることが「リアリティー」の感覚だと言える。また、フィクションである小説を「ホントにあったこと」のように感じるのも、「リアリティー」の感覚である。つまり、想像の産物でしかないものに「現実らしさ」を感じるのが「リアリティー」なのだ。
 そうである以上、「リアリティー」を感じるということは、それが「本物ではない」ことがわかっているということになる。「リアル」は「本物」で、「リアリティー」は偽物(作られたもの)に感じる「感覚」。それが「リアル」と「リアリティー」の最大の違いだと言える。「リアル」と「リアリティー」の間には微妙な形であっても、キッチリ線が引かれているのである。
  「ケータイ小説にはリアリティーがない」とよく批判される。レイプから数ページで立ち直ったり、癌に冒されているはずなのに元気だったりと、「現実らしさ」がないと批判される。ふつうの小説の感覚からいえば、その通りだろう。しかし、よく考えてみよう。「リアリティー(本物らしさ・現実らしさ)」はそれが「本物ではない、現実ではない」ことがわかっているからこそ起こる感覚だった。そこには、「小説はフィクションである」という前提がある。だからこそ、「リアリティー」を感じさせることが「作者」の腕の見せ所となるのである。その前提がケータイ小説にあてはまるだろうか。

(中略)

 『Deep Love 第二部 ホストの物語』の「あとがき」にはこういう一節がある。

 リアルな物語にするために実話をできるだけ盛り込むこと。自分の出来事のように感じてもらいたいからです。

 この説明は、ふつうの論理から見れば明らかに錯綜している。そもそも「リアルな物語にする」という言い方自体がおかしい。「リアルな物語」はそのまま「リアルな物語」であって、そのように「する」必要はないはずだ。そして、「自分の出来事のように感じてもらいたい」ということは、「リアリティー」を感じてもらいたいということでなければならない。つまり、「リアルにリアリティーを感じてもらいたい」と言っているのだ。先の「あとがき」とつなげるとこうなる。「リアリティーはないがリアルなので、リアリティーを感じてほしい」と。
  こういう説明のおかしさを指摘したいのではない。もしかするとその程度の言語運用能力しかないのかもしれないが、この循環論法の中心に「リアル」があることの方が、ずっと重要なことだ。「リアリティーはなくてもリアルはある」、こう言っているからである。

 かなり長い引用になってしまって、申し訳ありません。
 でも、この「リアル」と「リアリティー」の概念というのは、とても大事なことだと思いますし、これは「ケータイ小説」に限らず、ネット上の文章でも、最近とても気になっていたことなんですよね。

 もし、『Deep Love』や『恋空』の冒頭に「この物語はフィクションで、実在の人物とは関係ありません」という一文が置かれていたら、あんなに売れただろうか?と僕は考えます。
 少なくとも30代も後半にさしかかろうとする僕にとっては、これらの「ケータイ小説」に、「リアリティー」を感じるのは困難です。いくらなんでも、抗がん剤治療をしながら、青姦なんて無理+生殖能力もないだろ……とか言いたくなるんですよねやっぱり。

 その一方で、ネットで読む『泣ける2ちゃんねる』のエピソードに涙してしまったりすることもあるわけですよ実際。
 ネットでさまざまな「いい話」が話題になりますが、そこで多くの「感動した人々」に対して、一部の冷静な観察者たちは、警告を発します。
「でも、これ実話なの?」と。

 「いい話」って、とくに「作り話」だと、なんとなくしらけるような気がしてしまうんですよね、不思議なことに。そして、「感動的なフィクション」は、それが「作り話」であるという理由で、バッシングされることすらあります。
それがフィクションであろうと、ノンフィクションであろうと、そこに書かれている内容が変わるわけでもないし、「ノンフィクション」にも、書き手の主観が含まれている「演出的な側面」があるのはまぎれもない事実です。

 現代は、「リアリティーのあるフィクション」より、「リアリティーがないリアル」のほうが、信じられてしまう時代なのかもしれないな、と僕は感じています。
 世間の「賢い人々」は、「それが実話かどうか?」の検証に明け暮れているばかりで、「物語を読む楽しみ」を見失ってしまっているような気がするんですよね。
 メディア・リテラシーは大事なのだろうけど、「実話じゃないから全否定する」というのは、「実際にあった話だ(と書いてある、言われている)から何の疑問も持たずに受け入れる」というのと同じことになるのではないかなあ。

 「ウソをウソだと見抜けない人は、『2ちゃんねる』を利用しないほうがいい」という有名な警句があるのですが、ここに「本当のことを見つけ出せない人は」と書かれていないというのが、ひとつの『2ちゃんねる』のスタンスなのではないかと僕は考えています。
 「ウソを盲信しちゃいけない、でも、ウソを楽しむ余裕も必要なんだ」

 実際は、『ハリー・ポッター』シリーズがあれだけ売れていることから考えても(さすがにあれを「リアリティーがある」と感じる人はほとんどいないでしょうから)、みんなそれなりにうまくバランスをとっているのかな、とも思うのですけどね。

僕たちがこんなふうに「ケータイ小説」について「文学的に」語ろうとしている一方で、鳴り物入りでスタートしたTVドラマの『恋空』の初回視聴率が5%台だったように、「ケータイ小説」そのものは、完全に一時期の勢いを失ってきているようです。
 もしかしたら、「時代のあだ花」みたいな感じで、十年もしたら『恋空』あたりは昔の「青さ」を語る際のアイテムになってしまうのかもしれません。

 でも、「リアリティー」より「リアル」が重視されるという傾向は、ネット社会で、他者の「リアルらしきもの」に触れることが容易になったこともあり、今後も続いていくように思われます。

 石原千秋さんは、この本のなかで、こんなことを書いておられます。

 一昔前に、「ハーレクイン・ロマンス」というイギリス生まれの「小説」のシリーズが大ヒットしたことがあった。これは出版社があらかじめマーケティングをして、それをもとに「小説」の骨格を決めて、後はフリーのライターに書かせたものだった。小説が読者のニーズに応えるのではなく、読者のニーズが小説を作ったわけで、「作者」はこの時一度死んでいたのである。しかし、「ケータイ小説」は「作者」を殺してはいない。たしかに「作者という権威」は殺したが、多くの無名の「作家」を誕生させた。「ケータイ小説」がジャンルを確立すれば、一人の権威ある「作家」が小説を書き続ける時代から、多くの無名の「作家」が生涯に一度だけ小説を書く時代がやってくるかもしれない。それは「作者の死」だろうか。

 これは本当に「象徴的」な言葉だと思います。「リアリティーよりリアル」という傾向が続けば、「作者」は死ななくても、「『職業作家』の死」にはつながっていくはず(ただし、「専業作家」として食べていけている人というのは、現在でもごくわずかであることを書き添えておくべきでしょう)。
 それが、「読者」にとってプラスなのかマイナスなのかは、いまの僕にはなんとも言えないのですけど。


参考までに、いままでに僕が読んだ「ケータイ小説論」の本を御紹介しておきます。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

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