琥珀色の戯言

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ジャーナリズム崩壊 ☆☆☆☆


ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書)

ジャーナリズム崩壊 (幻冬舎新書)

[BOOKデータベースより]
日本の新聞・テレビ記者たちが世界中で笑われている。その象徴が日本にしかない「記者クラブ」制度だ。メモを互いに見せ合い同じカンニング記事を書く「メモ合わせ」、担当政治家が出世すれば自分も出世する歪んだ構造、権力におもねり掴んだ事実を報道しない体質。もはや新聞・テレビは権力をチェックする立場と国民に知らせる義務を放棄したも同然である。恐いもの知らずのジャーナリストがエリート意識にこりかたまった大マスコミの真実を明かす、亡国のメディア論。

第1章 日本にジャーナリズムは存在するか?(空想でしかない「客観報道」;メモ合わせ;自由な言論を許さないメディア;編集と経営;しばり、癒着);
第2章 お笑い記者クラブ(笑われる日本人記者;メディア界のアパルトヘイト);
第3章 ジャーナリストの誇りと責任(署名記事;実名報道;均一化したエリート記者たち);
第4章 記者クラブとは何か(記者クラブの誕生;日米メディアをめぐる誤解;英訳・キシャクラブ;都庁記者クラブの場合);
第5章 健全なジャーナリズムとは(アフガニスタン・ルール;過ちを認めない新聞;日本新聞協会の見解)

 この本、事あるごとに著者の上杉さんが「筆者が働いていたニューヨーク・タイムズでは〜」と書かれているのは、いかにも「アメリカかぶれ」にみえてとても「感じ悪い」のですけど、確かに、日本のメディアの問題点を忌憚なく示している良書です。
 ネット上では、よく「マスメディアの嘘」が取り沙汰されているのですが、「なぜ彼らは本当のことを書かない(書けない)のか?」という理由については、なんとなく「あいつらバカだから」「偏向しているから」みたいな話になってしまっておしまい、になりがちですよね。
 僕たちは、日本のメディアに不快感を抱いているけれど、その内情や「では、海外のメディアとどこが違うのか?」ということをほとんど知らないのです。
 僕は、『クライマーズ・ハイ』で観たような、「事件・事故が起こったら、一刻も早く現場に行って取材をする」のが「ジャーナリスト」だと思っていたのですが、上杉さんは、こんなふうに書かれています。

 再び結論を先に述べれば、日本でいうジャーナリズム精神とは、海外でのワイヤーサービスメンタリティに相当する。ワイヤーサービスとは、日本でいうと共同通信時事通信のような通信社のことを指し、速報性をその最優先業務とするメディアのことだ。
 いわゆる海外でのジャーナリズムとそれとは一線を画す。単に、時事的な事象を報じるだけではなく、さらにもう一歩進んで解説や批評を加える活動を一般的にジャーナリズムと呼んでいる。
 とくにその役割をぎりぎりにまで絞った場合は、公権力に対する監視役としての仕事が期待される。つまり「第四の権力」とも別称される通り、三権(立法、行政、司法)に対する監視こそがジャーナリズムの役割ともいえる。

 この定義でいうと、日本には厳密な意味での「ジャーナリスト」はほとんどいない、ということになります。考えてみれば、『クライマーズ・ハイ』でも事故に対する速報は「共同通信」から配信されていたもので、「北関東新聞」は、それにもとづいて取材をすすめていました。日本では、「速報性」を重視するあまり、「記事がみんな、ちょっと遅い共同通信になってしまっている」と言えなくもありません。事件・事故が起こった当初は、大きく報道されるけれども、それを「検証」「分析」する人間が手薄になってしまっているのです。

 また、メディアの「自らの過ち」に対する姿勢の違いについて書かれたところも印象的でした。

 海外の新聞は違う。自らの過ちに対して極めて正直であろうとしている。いや正直でなければ記者は生き残れないシステムを、新聞自身が構築しているといっても過言ではない。
 1970年代以降、ニューヨーク・タイムズワシントン・ポストは、「訂正(correction)欄」を確立、同欄を充実させてきた。他の海外の新聞の多くもそれを見習って採用しているが、残念ながら、日本では一切見当たらない。
 訂正欄は、日本の新聞の小さなそれと違って、毎日約1ページにもわたって、過去の記事の誤報について仔細に検討するスタイルだ。「過ちは素直に認め、迅速に訂正し、詳細にその原因を報じる」(ニューヨーク・タイムズ)という姿勢の通り、そのやり方は実に誠実だ。まずどの記事が間違いであったかを提示し、正しい情報を読者に知らせる。ここまでは日本の新聞と同じだが、違うのはそこからだ。
 なぜ間違いを犯したのか、原因はどこにあったのか、その理由は避けられないものだったのか――、そうしたことを徹底的に検証した上で、記者のミスならば率直に謝罪し、別の理由、たとえば政府が故意に虚偽の情報を流していたという類のものであるならば、新事実を改めて掲載した上で訂正欄に記すのだ。
 そのため、1日何件という「訂正」がコレクション欄を埋めることになる。ときには別の一面を使って誤報を検証することもある。これらは日本の新聞が絶対にやらないことだ。

 ここで上杉さんが採り上げられている「ニューヨーク・タイムズ」みたいな新聞が、世界のスタンダードなのかどうかは僕にはわかりません。でも、日本のメディアのように「自分たちの間違いは当然のように隠蔽しようとする」のと、こういう「報道に過ちはつきものなので、それをきちんと訂正し、原因を分析していく」というのでは、やはり、後者のほうが「信頼できる」ように思われます。
 ただし、上杉さんによると、日本の新聞のほうが「ウラをしっかりとってから書いているという印象はある」そうなので、その点はここで申し添えておくべきでしょう。

 上杉さんは、「実体験」として、NHKの海老沢会長へのインタビューの際の、こんなエピソードを書かれています(このインタビューの前に、黒田あゆみさんの離婚とそれが報道されたことによる番組降板に際し、上杉さんはNHKから強い抗議を受けている状態でした)。

 NHK放送センター上層階の部屋に到着するなり、筆者に対する質問から、その不思議なインタビューは始まった。まずは会長広報室(当時)の三浦元氏から冒頭30分、私への質問攻めが行われる。まるっきり喧嘩腰である。
 それにしてもNHKとは本当に変わった会社だ。インタビューを受ける側なのに、逆に質問を連発し、相手を嫌な気分にさせてしまう。確かに熱心なのは素晴らしいことだが、これではどんなインタビュアーだろうが、最初からみな不機嫌になってしまうだろう。そんなことはつゆ知らず、後に登場する海老沢氏も気の毒といえば気の毒である。
 その海老沢氏が部屋に現れると、なぜか7、8人に膨れ上がっていたNHK側のスタッフがいきなり全員起立して会長を迎えた。
「まぁ、まぁ」
 手で合図をしながら、部下たちを座らせる海老沢氏。ようやく我々との挨拶が交わされる。NHK側の都合で時間も限られている。すぐにインタビューに入った。
 海老沢氏のNHK入局に際して、当時、地元茨城県選出の衆議院議員、橋本登美三郎氏の力添えがあったのか否かと聞いた時のことだった。
「その質問を取り消してもらおう」
 隣の席に座っていた三浦氏がいきなり立ち上がるとものすごい剣幕でこう怒鳴った。すると、後ろのパイプ椅子に控えていた他のスタッフもみな立ち上がり、それぞれに文句を言っている。
「まぁ、まぁ、おい、黙って座れ。すみませんね、私は、何にでもお答えいたしますよ」
 憤る部下たちをなだめ、手で合図を送って座らせると、海老沢氏は小さな声でこう言ったのだ。
 その直後、再び、NHKと政治の関係について質問が及ぶと、まったく同じ光景が繰り返された。こうして海老沢一座との人情味溢れるインタビューは終わった。そして私はその時の印象的な様子を揶揄して、記事に「エビジョンイル」と書き出稿したのだ。
 こうした体質はNHKにのみ特有のものではない。日本の記者クラブというより日本のマスコミが持つ共通の傾向だ。
 いつもは他者の批判記事を書いている割には、自身や自身の組織にその矛先が及ぶとヒステリックに反応し、言論機関であるにもかかわらず正々堂々と言論で勝負するのではなく、知己の幹部などに相談し、上層部からの圧力によって、その批判を止めさせようとする。

 「国民の皆様からの受信料で成り立っている」はずのNHKの上層部がこの体たらく。
 こんな状況をつくっておいて、「何にでもお答えいたしますよ」って……
 いまは、「エビジョンイル」時代とは違っているのかもしれませんが、こういう時代があったというだけでも驚きというか、お前らそれで北朝鮮を批判できるのか?というか……
 しかも、上杉さんのこの口ぶりからすると、こういうのはNHKに限ったことではないようです。
 こんな体質の組織が「公正な報道」なんてできるとは思えません。

 僕は日本のマスコミにも、日本の風土に合った良いところもあるんじゃないかとは考えているんですよ(でも、どこが良いところなのか、すぐには思い浮かびませんが)、良心的な記者や「ジャーナリスト」もきっと少なからずいるはずです。
 しかし、この本を読むと、やはり暗澹たる気持ちになってしまいます。
 こんな体質では、個々のスタッフが「良い仕事」をしようとして頑張っても、どうしようもないよなあ……

 「日本のマスコミ批判」をしようとする人は、その前にぜひ一度読んでおくべき本だと思います。
 読み物としても「面白い」のでオススメです。
 

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