琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

僕秩プレミアム! ☆☆☆


僕秩プレミアム! (アフタヌーン新書 004)

僕秩プレミアム! (アフタヌーン新書 004)

内容紹介
待ち合わせは19時17分? 検索サイトは神……?
デジタルクリエイティブ時代を生き抜く著者による『脱力系気づき』が満載!

これが“デジタル世代”のリアルな頭の中!『僕の見た秩序。』や『ゆかいな誤変換。』のヨシナガが、会員限定サイトや人気携帯ゲーム機だけで特別公開していた珠玉のエッセイを厳選して書籍化!日常の中にある小さな不思議を見つけ出し、ネットが社会を変えていくことを面白がる。もう「僕たち」をロストジェネレーションだなんて呼ばせない。デジタルクリエイティブな社会を楽しく生きる「よかった」が盛りだくさん!!

「気付き系」のショートエッセイ集としては、読みやすい、けっこう良い本なのではないかと思います。
がんばってネットでの雰囲気を出そうとしているし、イラストもちゃんと入っているし。

ただ、率直な印象としては、「これで税込870円というのは、ちょっと高いかな……」という感じです。
読み物としての「軽さ」は魅力なんだけど、値段が「重い」。
文庫で500円以下くらいだったら、まちがいなくオススメできると思うのですけど、870円あったら、もっと長時間楽しめる本もたくさんあるしな、とか考えてしまいます。

最近新書の価格高騰が目立つのですが、「アフタヌーン新書」は、「漫画雑誌から生まれた日本一カンタンな新書!」とうたっているわりには、価格設定が簡単じゃないんだよなあ。
なんか「オタク狙いのぼったくり商法」みたいにしか見えん……

「物心ついたときからコンピューターが身近なところにあった世代」であるヨシナガさんの「感性」というのは、10歳も違わないはずの僕とはかなり異質なところもあるし、やっぱり似ているところもある。「これはすごい!」という驚きはあまりないかもしれないけど、「そう言われてみればそうだな」と頷ける作品です。

こんな話は、かなり興味深かったです。

(最近の「ケータイで読むマンガ」について)

これらの新しいマンガに共通するのは、

「ページという概念を捨てた」

ということだと思う。

紙のマンガ誕生以来、何十年も枠として存在しつづけた「ページ」という単位。

しかし、解像度の低い携帯やパソコンでは、ページ単位でマンガを扱うのは難しかったのだ。

そこで最小単位を「コマ」にまで分割することで、読みやすさと紙が同等になったため、一気に業界が活性化したのではないか。


ケータイマンガを配信する側はすでに「20ページの作品」とは言わず、「100コマくらいの作品」というように、コマ単位で作品を分けているという。

やっぱり大きな成功の陰には大きな発明があるものですよね。

こういう話は、「コンテンツを作る側の人」じゃないと、なかなか伝わってこないのではないかと思います。
そういえば、ちょっと前に「週刊アスキー」で、インリン・オブ・ジョイトイが売れた理由として、
インリンは『M字開脚』のように、小さな画面でもわかりやすい大きなポーズでアピールすることによって、携帯画面でのグラビアを成功させた」という話が書かれていました。
僕は「インリンのどこが良いのか、よくわからなかった」ので、これを読んで目から鱗が落ちたんですよね。
なるほど、そういう戦略もあるのか、と。

最後はちょっと脱線しましたが、この『僕秩プレミアム』と同じ系統の本を最後に2冊御紹介しておきます。
どちらも僕のオススメ。

四国はどこまで入れ換え可能か (新潮文庫)

四国はどこまで入れ換え可能か (新潮文庫)

ネットの中の「わたし」


ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」2009年5月26日(たぶん27日になったら、もう読めなくなってしまうと思いますのでお早めに!)

お国の大事について語ることも、
世界の平和について演説することも、
歴史的な偉人についての研究を発表することも、
芸能ニュースについておしゃべりすることも、
同情すべき他人について訴えることも、
「わたし」のいないままで、いくらでもできます。
同じ日本語ですから、
「わたし」が、いようがいるまいが、
そのちがいもわかりにくいものです。
 
ぼくも、そうしていますけれど、
まるまる全力で「わたし」のいる文章だけ書いていたら、
おそらく社会で生活できなくなるので、
「わたし」をしょっちゅう外してものを言います。
だけど、「わたし」を外すことを習い性にしてしまうと、
「わたし」は、蒸発してしまうように思うんですよね。

この糸井さんのコラムを読みながら、僕はいままでモヤモヤしていたものが、ようやくちょっとクリアになった気がしました。
僕は、「わたし」の存在を感じさせてくれるブログやサイトが好きなんだなあ、って。
ネット上には、「常識として〜」とか「男というものは〜」とか「日本人は〜」というような前置きで、「わたし」不在の「自分の考え=一般常識」と思い込ませるような言説が溢れています。
でも、こういうのって、実は、「お前の考えは間違っている」って言われるのが怖いから、主語を曖昧にしたり、「それが常識であるような書き方」をしているだけなのではないかと。
そういう人が書くものは、概して面白くないんです。
だって、「他人に責められないこと」「自分を正しくみせること」ばかり意識して書かれていて、個性も新しい視点もないから。

僕は、「自分語りウザイ」と言われても、「わたし」の目や耳や心を大事にしているサイトやブログが好きです。
「わたし」のない世界は、マスコミや専門家に任せてもいいんじゃないか、とすら考えています。
みんなが、教育評論家みたいに育児を語ったり、映画評論家みたいに映画を語ったりする必要なんてないはず。

僕はもっと、ネットの中の「わたし」の声を聴きたい。

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