琥珀色の戯言

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サラの鍵 ☆☆☆☆


サラの鍵 (新潮クレスト・ブックス)

サラの鍵 (新潮クレスト・ブックス)

内容(「BOOK」データベースより)
パリで平穏に暮らす45歳のアメリカ人記者ジュリアは戦時中にこの街で起きたユダヤ人迫害事件を取材することに。しかしその事件が彼女の、そして家族の人生を深く、大きくゆさぶりはじめる…。

本の雑誌』や新聞の書評などで、かなり好意的な評価が並んでいたこの作品。
僕もあらためて「戦争」というものを考えてみようと思いつつ手にとりました。

「ほら、1942年7月16日よ。ピンとこない?」
 ときどき、あたしの知らないことなんか何もないのよ、と言わんばかりのアレッサンドラの口調が憎らしくなる。きょうがまさしくそうだった。
 ジョシュアがつづけた。
「例の、ヴェロドローム・ディヴェールでのユダヤ人一斉検挙さ。”ヴェルディヴ”とは、ヴェロドローム・ディヴェールを略した呼称なんだ。そこは主として自転車レースが行われた有名な屋内競技場でね。何千人というユダヤ人の家族が、何日もそこに閉じ込められたのさ。獣を扱うような悲惨な条件の下で。それから、全員がアウシュヴィッツに送られたあげくガス室で殺された」

1995年7月に、フランスのシラク大統領は、フランスの大統領としてははじめて、ドイツ軍占領下の”ヴェルディヴ”でフランス政府が果たした役割について、演説で採り上げたのだそうです。
フランスから移送されたユダヤ人、76000人。
ヴェルディヴ”に収容された子ども、4000人あまり。
ナチスからの指令は「成人したユダヤ人の収容」であったにもかかわらず、当時のフランス・ヴィシー政府は、「自発的に」子どもたちも収容しました。
そして、彼らのほとんどは、ガス室に送られたのです。
当時のフランス人たちには、そこまでの「行き先」はわからなかったのかもしれませんが……

この『サラの鍵』では、半ば過ぎまで、「1942年フランス人によって囚われ、傷つけられた少女・サラ」と「ある共通点をきっかけにサラのことを知り、サラの軌跡をたどらずにはいられなくなった45歳のアメリカ人記者ジュリア」の物語が、交互に語られていきます。
自分の命以上の「大切なもの」を守るために、悲しみのなか、大きな力に立ち向かっていこうとするサラ、そして、彼女を飲み込む、歴史の悲劇……
多くのフランス人たちは、ユダヤ人たちを助けようとはしなかったどころか、ナチスに協力して、それまでの隣人たちを差別し、排斥していきました。
それは彼らの「本意」ではなかったのかもしれないし、あの時代に生き延びるには、しょうがなかったのかもしれません。
僕だって、あの時代のフランスに生きていれば、積極的に差別に加わることはなかったとしても、「黙認」していたんじゃないかと思います。
しかし、フランスは、「多くの人々が、積極的・あるいは消極的にでも、ナチスに協力していた」という歴史的事実さえも「なかったことにしようとしていた」のです。
この物語によると、ほとんどの若いフランス人たちは、”ヴェルディヴ”で起こったことを知らないし、教科書にも載っていない。
日本は「戦争責任を子どもたちに教育していない」と批判されることがありますが、それは、日本だけのことではないのです。
戦勝国」には、勝ったからこそ、「戦争犯罪」や「戦時の非人道的な行い」を語らない、あるいは語れないという一面は、たしかにあるのでしょう。
でもまあ、その一方で、僕はこれを読みながら、「ジュリアたちが、ここまで『責任を感じる』必要があるのだろうか?」とも思ったんですけどね。

この『サラの鍵』物語半ば過ぎの、サラとジュリアが交互に語り手になるところまでは、息もつけない、緊張感あふれる小説です。
しかしながら、僕はこの小説の後半には、「なんだこれ?」と感じずにはいられませんでした。

サラに感情移入しすぎたジュリアが突っ走りまくって、家庭やフランスという国に対する不満を”ヴェルディヴ”に投影しまくっているだけなんじゃないか?
彼女に巻き込まれ、振り回された人たちは、いい迷惑なんじゃないか?
そもそも、アメリカ人だって、広島や長崎でやったことについて、「内省」すべきではないのか?

後半、なぜかラブストーリーになっていくところなどは、もう、読んでいて腹が立ってきました。
お前がサラのことを語る資格なんてあるのか?
そもそも、他人が秘密にしておきたいと思い、一生懸命隠していたことを暴き、公共の目的ではなくて、自己満足のために、その人が隠し続けていた相手にペラペラしゃべってしまうなんて、最低じゃないの?

ジュリアの視点からの「現在のフランス」「現代の女性」の記述がなければ、「戦争の悲劇」のみを描いた作品として、「通読するのはつらすぎる小説」になっていたとは思うんですよ。
サラがいまと「つながる」ことには、たしかに、意味があるのかもしれません。
でも僕には、ジュリアの行動は、「女性の自立」っていうより、「思い込みの激しい女性のワガママ」に感じられます。
サラの悲劇をダシにして、自分の行動を正当化しているだけのようにも見えるのです。

マディソン郡の橋』を観て、「ああ、これは主人公の夫がかわいそうすぎる……」と思ったときと、同じ違和感。
これがやっぱり、こういうのは欧米と日本の価値観の違いなのでしょうか。
それとも、僕が「圧倒的少数派」なのだろうか。

少なくとも、「”ヴェルディヴ”で起こったこと」を広く世に問うたという点では、意味がある作品です。
でもなあ、僕にとっては、なんだかすっきりしない小説でした。

参考リンク:サラの鍵 : 書評 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)(小泉今日子さんによる書評です)

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