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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

「子供がうるさいので電車降りてくれませんか」

WEB 社会

「子供がうるさいので電車降りてくれませんか」と母親に言った女性会社員の行動について議論(『Pouch』2010年08月31日)

ことのはじまりは、twitterでの、こんなつぶやき。

「出社する時の地下鉄で、『子どもがうるさいので降りてくれませんか。みんなこれから働くんですよ』と親子連れに意見したOLに遭遇。泣きそうな顔で子どもを連れて降りたお母さんに勝ち誇った顔をしたOLに嫌悪感。スーツ姿でパリッと決めたキャリア志向さんなんだなぁ。」

もうすぐ2歳になる子どもの親としては、これを読んで、少なくとも良い気分にはなれませんでした。
自分がこのお母さんと同じ立場だったら、つらくて、悲しかっただろうと思うから。
僕は田舎住まいなので、「子どもと一緒に満員電車に乗る」なんて機会はそうそう無いのですけど、このお母さんだって、好きで子どもと一緒に通勤電車に乗っていたわけじゃないはずです。
何か事情があって、電車に乗らなければならなかったのかもしれません。
子どもがいるからって、車で常に異動するわけにはいかないだろうし。

子どもは親が「静かにしてくれ……」と思っていても騒ぐときは騒ぐし、注意するとかえって泣きだしたりもします。
「教育がなってないからだ」って言うけれど、「教育」通りに大人しくしていることができないのが、人間なわけで。

太平洋戦争中の沖縄で、集団で隠れていた防空壕のなかで泣きだした赤ん坊の口を親が塞ぎ、窒息死させたという話が知られていますが、この子だって、教育が悪いから、その状況で泣いたわけではないでしょう。

ほとんどの親は、「子どもが周囲に迷惑をかけて、白眼視されること」を怖れています。
『父として考える』という新書のなかで、東浩紀さんが、

東:かつて三浦展さんがショッピングモールに覆われた風景を「ファスト風土化」と批判しました。似た問題意識を持つかたは多いですが、僕はその見方はあまりに一方的だと思う。実際、若い子連れの夫婦があまりお金をかけずに一日遊べて、買い物もできるという意味では、ショッピングモールほど便利で快適な場所はない。

と仰っていましたが、僕も親になってみて、この言葉の意味がわかるようになりました。
子どもがいないときは、「なんでジャスコはこんなに子連ればっかりなんだ?うるさいなあ」なんて思っていたくらいです。

実際、小さい子ども連れの家族を積極的に許容してくれる場所って、街中にはジャスコくらいしかないんですよ本当に。
たぶん、この電車に子ども連れで乗ったお母さんも、不安だったのだろうし、通勤電車のなかは、子どもにとっても「怖い場所」だったのでしょう。


その一方で、僕はこの女性会社員を「無慈悲な女」として責め立てるのも、ちょっと躊躇してしまいます。
いろいろと想像の余地はあるわけで、たとえば、この人が「ずっと不妊治療を続けているのに子どもができず、楽しそうにしている子どもと母親に苛立ちをぶつけてしまった」とか。
まあ、そうだとしても、こんな態度に出るのは好ましくはないでしょうが。
そこまで深い事情はないとしても、体調が悪いとか、仕事がうまくいかなくてイライラしているとか、何か重い悩みを抱えていたとか、そんなとき、ちょっとしたきっかけで、「他人に冷たくあたってしまうこと」って、誰にでもありますしね。
だいたいにおいて、損得でいえば、こういうシチュエーションで、あえて「出ていけ!」と叫ぶより、少しの間だけ我慢していたほうが「無難」ですから。

ただ、ひとつ感じたのは、「ああ、このOLさんは、『働く』のがつらいんだろうなあ」ということ。
先日ハワイに家族旅行に出かけて、道中、うちの息子は飛行機のなかやバスのなかで騒ぎ、かなり周囲の人たちに迷惑をかけてしまったのですが、「すみません……」と謝る僕たちに、みんな温かく接してくれました。
本当に、そのことには感謝したい。
日本を19時発で、現地では朝に到着する飛行機なんて、みんな眠っておきたいはずなのに。

それと同時に、人っていうのは、やっぱり、自分に余裕があるときには、人に優しくできる、というのも事実だと思います。
南の島でバカンスを過ごしていれば、「いちいち腹を立てるのはやめよう」って気分にはなるものね。
人に怒りをぶつけるっていうのは、ぶつける側にとっても、けっこうストレスになるものです。

この件に関して、僕が気になったのは、電車内という「公共の場所」についての意識の差でした。
「みんなの場所だから、みんながちゃんとしておくべき」なのか、あるいは、「みんなの場所だから、多少の不快はお互いに辛抱すべき」なのか?
そして、その人の立場によるものの見えかたの違い。

以前、僕があるコンサートに行ったときの話。
コンサート会場で座っていると、なんか臭うんですよ。それはもう、演奏に集中できないくらいに。
まあ、誰かがオナラでもしたんだろう、と思ったのですが、その臭いが全然おさまらない。
大枚を投じてチケット買ったのに、なんて酷い!と臭いの方を気にしていたのですが、休憩時間に、その方角に座っていた高齢女性が、友人らしい人に話をしていました。
「すみません……どうもストーマ人工肛門)の調子が悪いみたいで。御迷惑じゃないですか?」
うーん、こういうのは、「割に合わない」ような気はするけれど、やっぱり我慢すべきなんだろうな、と。
後天的な原因じゃなくても、体臭がキツイ人とかは存在するのですが、それでも、多くの人は我慢します。
そういう気持ちがなくなったら、人間関係なんて、ひたすらギスギスしていくだけなんじゃなかろうか。

僕は思うのです。
この親子連れとOLさんのどちらが正しいかを決めようとすると、断絶は深まっていくばかり。
むしろ、こういう場合に「お互いに、ちょっとだけ辛抱したり、気配りをする世界、少しずつ迷惑をかけあうことを許容する社会」であってくれればいいのに、と。
親子連れのお母さんも、きっと、子どもが大騒ぎして、気まずかったはず。
それこそ「穴があったら入りたい」気分だったのではないでしょうか。
そして、周囲の人たちも、通勤電車のなかでの子どもの大声は、やっぱり愉快ではなかったでしょう。
自分に子どもができる前だったら、僕だって「不快」だったのではないかなあ。
「親は何やってるんだ!」とか、内心毒づいていたかもしれません。

でもね、もしここでお母さんが一言「子どもが騒いでしまって、すみません」と口に出していれば、周りの空気は少し変わったのではないでしょうか。
まあ、そのひとことを口にするのは、けっして簡単なことじゃないんだけれど。



ちょっと脱線してしまいますけど、僕は最近、ちょっと怖いんですよ。
僕がよく行く映画館では、映画がはじまえる前に「上映中のマナー」がスクリーンで告知されます。

「前の席を蹴るな」とか「携帯電話を鳴らすな」というのはよくわかる。
しかしながら、「他の人の邪魔をしないように、おしゃべり禁止! 静かに映画を観ましょう」なんていうのは、なんだかなあ、という気がします。
後ろの席でおばちゃんたちが世間話全開!とか、横でヤンキーたちが大騒ぎ!なんていうのは勘弁してほしいし、「アメリカでは上映中にみんな大歓声で楽しんでます!」なんて言うつもりはないのだけれど(僕も可能なかぎりは静かなほうが好きです)、映画館の中でも、そこまで「お行儀よく」しなければならないのか……と。
なんかもう、あの「上映中のマナー」を観ていると、面白いシーンで笑うことすら憚られる、そんな感じです。
映画館は「修行の場」じゃないはずなのに。

「マナー」は大事なんだけど、その一方で、「マナー原理主義」のおかげで、世界はちょっと息苦しくなってきているんじゃないかなあ。
とくに「ネットの人々」は、「社会におけるマナー」に厳しい印象を受けます。
酔っ払いにゲロを吐かれたり、暴力団に絡まれたりするのは「受け入れがたい」けれど、まだ年端もいかない子どもが騒ぐくらいの「マナー違反」は、なんとか許していただけないものでしょうか。
もちろん、僕もなるべく寛容になれるように努力しますから。
そして、社会はどちらが正しいかを決めようとするよりも、「黙って我慢している人たち」を、もっともっと褒めてあげるべきなんじゃないだろうか。



最後に、これを読んでいて、twitterによって、僕たちは確実に「監視社会」に向かっているのではないか、と少し不安になったことを書いておきます。
この「親子連れ」や「OLさん」がどこの誰であるか、ネット住民たちが本気で同定しようとすれば、それはけっして、不可能なことではないでしょう。
「ちょっと虫の居所が悪くて、騒いでいた親子連れにキツくあたった」ということが、このOLさんの他のすべての人格を飲み込んで、日本中に「発信」されていく。
かつて、「テラ牛丼」を告発されたバイトの学生たちがいましたが、このOLさんだって、個人を特定されて、大バッシングを受ける危険性があるのです。
これって、けっこう怖くない?
僕だって、こういう「苛立ちを誰かにぶつけてしまうこと」はあります。
それが誰かにツイートされることによって、世界を敵にまわすかもしれない。

「正しさ競争」の行きつく先は、「映画館で笑ったら、世間から大バッシングを受ける世界」。
「いつでもつぶやける」ネット社会というのは、『1984』のビッグ・ブラザーも想像しなかったような「相互監視社会」に続いていく危険性もあるように、僕には思われます。