琥珀色の戯言

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なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか ☆☆☆


なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか(祥伝社新書226)

なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか(祥伝社新書226)

出版社/著者からの内容紹介
パチンコによる被害が叫ばれて久しい。依存症でサラ金闇金の借金まみれになった末に家庭崩壊、自殺という例は跡を絶たず、炎暑下の赤ちゃん車中置き去り死亡事故も相変わらずである。著者は長年、パチンコ依存症の問題を取材してきたが、2006年暮れ、たまたま旅行した韓国で、パチンコが全廃され、すべての店舗が姿を消しているのを目にした。ところが驚いたことは、日本に帰ってきて新聞雑誌をみても、そのことを報じている新聞は皆無で、そのことを知っている識者も誰もいなかったことである。
日本では、政界、警察、広告、メディアがパチンコ業界と癒着して、抜き差しならない関係になっていることは、およそ薄々知られているが、それならなぜ、韓国ではそれが全廃できたのか、日本と韓国とでは、何が違って何が共通していたのか、ますます疑問を深めた著者は、再び韓国に渡り、事情を取材して歩いた。
本書は、そんな韓国のパチンコ事情の報告に加えて、日本におけるパチンコを取り巻く種々の問題点を取り上げ、パチンコ廃止の必要性を世に訴える。


内容(「BOOK」データベースより)
韓国にできて、日本にできない恥辱。日本は、まともな国といえるのか!?韓国では、往時にはパチンコ店が1万5000店、売上高は日本円にして約3兆円にのぼった。それが、2006年の秋に全廃され、いまは跡かたもない。だが、その事実を伝えた日本のメディアはなく、それを知る日本人は、いまもほとんどいない。日本でいち早くそれをレポートした著者は、その後も何度も韓国を訪れ、なぜ韓国にそれができたのかを取材した。そこから見えてきたものは、日韓であまりにも対照的な社会の実態だった。


参考リンク(1):404 Blog Not Found:国辱 - 書評 - なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか

参考リンク(2):パチンコについて語るときに僕の語ること(琥珀色の戯言)


 パチンコに対しての僕のスタンスは、「参考リンク(2)」のエントリで言いつくしてしまっているので、ここであえて繰り返すのは止めておきます。
 僕もこの新書を読んだのだけれど、僕もいままで、「2006年8月に韓国てパチンコが禁止された」ことを知りませんでした。
 いや、台湾の「爆裂パチンコ」の話は聞いたことがあるのですが、韓国で2000年頃から、「メダルチギ」と呼ばれる日本のパチンコ台を改造したものが流行していたことすら知りませんでした。

 この新書では、「どのようにして、韓国ではパチンコが禁止されたのか」について紹介されているのですが、著者は、終始、韓国の政治家やマスコミを賞賛し、パチンコ業界と癒着している日本の政治家やマスコミ(いまや、パチンコ業界は、日本のメディアにとっての大広告主なのです)を厳しく批判しています。
 それはまさに「正論」ではあるんですよね。ただ、読んでいると、「韓国では、地下鉄のマナーも日本よりすぐれている」とか、パチンコの話から、すべてにおいて、「韓国礼賛、日本批判」になっていくのは、日本人としては、読んでいて悲しかったです。

 そんなに韓国の政治家のモラルは、優れているのだろうか?
 この新書のなかで、こんな話が紹介されています。

 韓国に関しては、気になるニュースもあった。2008年2月22日、韓国の通信社「総合ニュース」が電子版で伝えたニュースである。

 2月22日、韓国訪問中の民主党の小沢代表と会談した李明博(イ・ミョンバク)大統領が、日本のパチンコ産業の規制に言及していたことが分かった。パチンコ産業の規制強化の影響で、在日同胞が苦境にあえいでいる、と小沢代表に話したと言う。小沢代表は李大統領に対して、帰国次第、民団に聞いてみると応じた模様だ。

 この記事に説明を加えると、李大統領の「規制強化の影響で」との発言は、「爆裂機」といわれたパチスロの四号機の認定取消のことなのである。

 「四号機」というのは、『ミリオンゴッド』に代表される、「勝つときは何十万と勝てるけれど、負けるときは、それこそ百万負ける」というギャンブル性の高いパチスロ機のことです。
 あまりに負ける金額が大きいのでさすがに日本でも問題になって認定が取り消されたのですが、そんなものを他国の要人に「配慮」するように話すなんていうのが、まともな政治家のやることだとは思えません。
 結局のところ、韓国でパチンコが全廃できたのは、「政治家が、そのほうが自分の政治生命にとってプラスだと判断したから」だけなのではないでしょうか。
 現実問題として、いまの日本で、6年くらいのパチンコの歴史しかなかった韓国と同じやりかたで、「パチンコ全廃」が可能とは思えませんし。
 その一方で、先日の都議会での「表現規制」のように、こういうのは、ある程度「権力側からの強権の発動」がないと、「みんなが打たないように気をつける」だけではどうしようもないのかな、という気もするのですけど。

 僕は自分でもパチンコにハマっていたことがあるので、「パチンコに関わる物事が、すべて悪」という見方には、どうしても抵抗があります。
 「子どもが車内放置で死んでしまう」というのは、そのプロセスの悲惨さも考えると絶対に許せないことだけれども、親の恋愛やアルコール依存に伴って虐待される子どもと、どちらの数が多いのか、というようなことも考えてしまうのです。
 パチンコは依存性が強く、さまざまな悲劇を生みだしているのは間違いないし、僕もあんなものは無くしてしまったほうが良いと思います。
 ただ、いまの「平凡に、地味に生きることが認められない世の中」で、大金持ちでもなく、特別な才能もない人間が、あまりにフラットな自分の人生に起伏をつけるためには、もう、パチンコでもやるしかないんじゃないか、という気もするんですよ。
 逆説的に言えば、「パチンコなんてバカがやるものだ、パチンカスども!」って言う人がいるからこそ、「プチアウトサイダー」としてのパチンカーが成り立つのかもしれません。
 この本では、「拝金主義」がパチンコの隆盛を生み出したと書かれているけれど、僕は「いま地道な努力をしていたら、将来報われるはず」という「希望」が失われてしまったことのほうが、多くのパチンコ依存症患者の病因だと感じています。
 彼らの多くが求めているものは、「自分の人生は平凡で、つまらないものじゃない」という証明なのです。
 もちろん、いくらパチンコをやっても、そんなものは手に入りません。
 ただ、パチンコというのは、そういう悩みを、機械と一体化することによって、一時的にでも忘れさせてくれるのです。
 だからこそ、怖い。


 ネット上ではとくに東京都での「表現規制」の問題が熱く語られていますが、エロとギャンブルというのは、社会のアンダーグラウンドの文化として、かなり近い位置にあるのではないでしょうか。
 エロ雑誌やギャンブル雑誌が、無名のクリエイターたちに最低限の仕事とお金を与えてきたことも事実です。
 「表現は自由」だから、「非実在青年」への強姦や幼女の凌辱の描写は認めるけど、「あんな『朝鮮玉入れ』をやるヤツは人間の屑だ」というのは、ちょっと料簡が狭いと思うし、「あなたが『性的描写の自由』を認めてもらいたいのと同じように、パチンコに自分が溺れる自由を認めてもらいたいと思っている人がいる」というところからスタートしないと、たぶん、「パチンコ問題」は本質的には解決しないでしょう。
 もしパチンコが廃止されても、彼らは(そして、私たちは)他のものに依存するだけのこと。
 それにしても、人間って、自分がやらないこと、興味ないことに対しては、驚くほど冷淡になれるものみたいです。
 世間の「良識派」からは、「エロもパチンコも、どっちも社会の迷惑!」って、十把一絡げにされているかもしれないのに。

 日本でもパチンコは、確実に右肩下がりになってきているようです。
 僕の実感でも、校外の中小のホールはどんどん潰れていますし、駐車場に停まっている車の数も減っています。
(最近は店内に入っていないので、中がどうなのかはよくわからないのですが)

 僕はずっと、「パチンコ店は、10時から23時までとか、営業時間が長すぎるのが問題なのではないか」と考えていたのですが、韓国では、『ネットゲーム(オンラインゲーム)中毒」が大きな問題になりつつありますし、日本では、『モバゲー』『グリー』などが大量のCMを投下して老若男女にアピールしています。
 これらは、一度にかかる金額は少ないように見えますが、「24時間営業」で、確実にハマった人たちから、お金と時間を奪っていくのです。
 「街中どこにでもパチンコ屋がある」というのが「ギャンブル大国・日本」の光景だったのですが、いまや、多くの人が「パチンコ(のような依存性を持つゲーム)を持ち歩いている」状態です。

 たとえ、連ちゃんして大勝ちしても、嬉しそうな顔をするお客さんはほとんどいない。結局、それまで負けている額を考えれば、嬉しがってもいられないのである。
 筆者も、パチンコ店を取材していつも思うが、ほとんどの客は、暗い表情でパチンコ台に向かっていることだ。
 嬉しそうな顔をして打っている脚は、なぜかいない。玉が出ているときでも、申し合わせたように暗い顔をして打っている。
 打っている姿を見ても、心からパチンコをやりたくて打っている人は少ないということが分かるのである。パチンコ依存症になり、やらされているケースが多い。だから、やるほうが悪いで済ませてはいけないのである。

 もはや、パチンコは日本社会と「一心同体」になってしまっているのかもしれません。
 あるいは、いつの世の中でも、庶民には「パンと見世物」が必要で、この時代は、それがパチンコであるだけなのかもしれません。

 先日読んだ、福沢諭吉の『学問のすすめ』に、こんな言葉がありました。

 西洋のことわざにある「愚かな民の上には厳しい政府がある」というのはこのことだ。これは政府が厳しいというより、民が愚かであることから自ら招いたわざわいである。愚かな民の上に厳しい政府があるとするならば、よい民の上にはよい政府がある、という理屈になる。いまこの日本においても、このレベルの人民があるから、このレベルの政府があるのだ。

 うーん、最終的にはやはり、ひとりひとりの「覚悟」なのでしょうね。
 あるいは、戦争か独裁者か……

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