琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「自殺や過労死するくらいなら仕事辞めろ」

参考リンク:過労死や自殺するくらいなら仕事辞めろよ こればかりは社畜の考えが分からん(アルファルファモザイク)

「自殺や過労死するくらいなら仕事辞めろ」
僕もそう思います。
ときにこの参考リンクに書かれているような「酷い職場」なら。
もし彼が、この支社長に「そのやり方には、ついていけません」と、ひとこと言えれば、少しは変わっていたのだろうか?

でも、僕はこんなことも考えてしまうのです。
この支社長自身は、彼に特別に目をかけていて「使える社員」として鍛えていたつもりなのかもしれない、と。
もちろん、支社長の彼への扱いそのものは間違っているのですが、もし、彼がこの仕打ちに耐え抜いて出世すれば「若いころに支社長に鍛えられたおかげで、ここまで来ることができました」と言った可能性もあります。


「もう少しがんばれ」と「がんばりすぎるな」の境界はどこにあるのか?
僕には、それがよくわからないんですよ。
僕は就職して15年くらいになりますが、最初の1年くらいは、本当に仕事がキツくて、24時間いつでもポケベルが鳴り、病院に呼び出され、上司に怒られる生活がつらかったし、毎日24時を過ぎ、ボロボロになって家に帰ってきては、「もう、明日は職場に行くのをやめよう……」と思っていました。
同僚には「急患をみると血がたぎる」という人もいたので、僕自身の適性の問題でもあったのでしょうが、少なくとも同級生の3人は1年以内に離職し、その後も何人かは自ら命を絶ちました。
もっとも、こういうのは、ある程度の経験と技術を要求される職場では、特別な話ではないのかもしれません。


僕は「とにかくがんばれ」という人は嫌いだけど、その一方で、「がんばらなくていいよ」という人にも、その優しさに感謝する一方で、「そういうわけにもいかないんだよ」と反発してしまいます。
無理しないで、鼻歌交じりで成果を出せればいいのだけれど、どんな世界でも、高いレベルを目指すのであれば、「限界ギリギリ」あるいは「限界を超える」ことが求められてくるのです。
普通に車を運転するのであれば、「安全運転」で良いけれど、F1レーサーを目指すのであれば、「事故が起こるギリギリのライン」を走ることを要求されます。

「車幅の感覚は、ぶつけてみないとわからない」
僕が運転しはじめたとき、よく耳にした言葉です。
同じように、人間って、自分のことでも、いや、自分のことならばなおさら、「限界」って、自分ではよくわからないような気がします。
いま、ものすごく仕事がキツイけど、これが「限界」なのか?
ここで仕事をやめていいのか?
これを乗り切ったら、自分はレベルアップできるのではないか?
「限界っぽいもの」の前で、すぐに立ちすくんで引き返してしまうようでは、ずっと「同じところをぐるぐると回っているだけ」になってしまうのではないか?

僕は以前、こんな「金メダリストの練習風景」の記事を読んだことがあります。
『Number』(文藝春秋)542号に掲載されていた、長野五輪の金メダリスト、男子スピードスケートの清水選手の記事「清水宏保〜もう一度金メダル〜」より。

 清水のトレーニングは、目を覆いたくなるほど過酷である。特に自転車のローラーを使う無酸素系のトレーニングは、心拍数を生命的限界の220ぐらいにまで上げ、筋肉と脳への酸素の供給を絶ちきるのだ。酸素の供給を絶たれた筋肉は痙攣を起こし、脳は脳死寸前のブラックアウト状態になる。目の前の光が消える一歩手前で自転車を降りるが、苦しみのあまり地べたをのたうち回り、意識が回復するとまた同じことを繰り返す。初めてこの練習を見たときは、不覚にも涙がこぼれた。
「やる方だってイヤですよ。このトレーニングの時は前日からドキドキしますもん。でも、筋肉を破壊しないと新しい筋肉が再生されない。ただ単に筋肉の破壊なら電気ショックを与えても出来ます。でも無酸素系のトレーニングで同時に脳も変容していかないと、いくら筋肉を鍛えても指令を出す脳の限界値が低ければ、意味がなくなってしまう。」(「」内は清水選手の発言)

これはもう「本人がやりたい(というか、やらなくてはならないと思っている)から、やっている」のかもしれませんが、世の中には、こんなことまでして「頂点」を目指している人もいます。
その一方で、東京オリンピックで銅メダルを獲得したものの、その後の周囲の期待に応えようとするあまり、大きなプレッシャーがかかり、結果的に自ら死を選んでしまった、円谷幸吉というマラソンランナーがいます。

では、僕たちは、清水選手には「がんばれ!」、円谷選手には「もうがんばらなくてもいい」と声をかけるべきだったのか?
誰が、この2人の間に「境界線」を引けるのでしょうか?

人手が足りない職場っていうのは本当に「優しさ」を維持するのが難しくて、同僚の女性の「産休」でさえも、「これ以上仕事や当直が増えるのか……」と、内心呪いたくなることもありました。
そんな状況を自覚していればいるほど、自分が「辞める側」になるには覚悟が必要です。
世の中には、たぶん、「仕事を辞めるよりも、自殺や過労死を選んだほうがラク」という精神状態があるのだと思います。

個人的には「死にたい」という気持ちが自然にわいてくるようになったら、仕事は投げ出して、休むべきだと考えています。
ただ、結局のところ、そういう明らかなサインが無い場合には、「もう少しがんばれ」と「がんばりすぎるな」というのは、リアルタイムではよくわからないものだと思うのです。
後になって、「もう少しがんばれば良かったのに」「がんばりすぎなければ良かったのに」という「結論」が出るだけで。

「自殺や過労死するくらいなら仕事辞めろ」
たしかにその通りなんですよ。
でも、他人には「もう仕事辞めたら」ってアドバイスできても、自分のこととなると、なかなか「限界」ってわからないし、自分の「限界」を認めるのは難しい。
どうすればいいのだろうなあ、と悩んだまま、僕の思考は堂々巡りするばかりです。



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