琥珀色の戯言

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サニーブライアンの思い出


僕の忘れられない馬が、また一頭逝ってしまいました。

netkeiba.comの記事より。

 3日夜、97年の2冠馬サニーブライアンが、余生を送っていた北海道浦河町優駿ビレッジAERUで病気のために死亡した。17歳だった。

 同馬は、父ブライアンズタイム、母サニースイフト(母の父スイフトスワロー)という血統。11番人気(単勝51.8倍)で出走した97年皐月賞(GI)、6番人気(単勝13.6倍)で出走した97年日本ダービー(GI)を制し、10戦4勝の成績を残した。

 現役引退後、98年から北海道新ひだか町アロースタッド種牡馬となり、07年に引退するまでにカゼニフカレテ(愛知杯-GIII)、グランリーオ(中日新聞杯-GIII)の重賞勝ち馬を送っている。

 この馬が勝った1997年のダービー、僕は部活の後輩たちを引き連れて競馬場に行っていたのです。
 東京競馬場ではなくて、地方競馬場のJRA場外馬券売り場だったんですけど。

 このダービー、皐月賞馬のサニーブライアンは、かなり評価が低かったんですよね。
 皐月賞の勝利も「まんまの逃げ切り」とフロック視されていて、このダービーで1番人気になっていたのは、東京の長い直線で息の長い末脚が炸裂!するはずのメジロブライト
 僕も、周りの後輩に「サニーブライアンなんて、東京の2400mじゃ通用しないよ」なんて、「競馬通」として親切なアドバイスを送っていたのです。

サニーブライアン先頭、サニーブライアン先頭、もうこれは、フロックでもなんでもないっ!!」
アナウンサーの絶叫に、「フロックじゃないんなら、ダービーの馬券買う前に教えてくれよ……」と内心毒づきつつ、後輩たちの前なので、「競馬って難しいよねえ……あはは」と引きつった笑いを浮かべる僕。
 サニーブライアンが一人旅で逃げ切り勝ちという、サニーブライアンの馬券を持っていた人間以外にとっては、面白くもなんともないダービー。
 まったくの不人気馬の逃げ切りであれば、「人気薄の漁夫の利」で済ませられるのでしょうが、ちゃんと皐月賞を勝っていた馬を先入観で軽視してしまったというのは、なんだかすごく自己嫌悪に陥ってしまう結果でした。
 サニーブライアンの大西騎手の言葉は、いまでもよく覚えています。

「1番人気はいらなかった。1着だけが欲しかった」

 まあ、みんな外れちゃっただろうけど、こんなレースじゃどうしようもないよなあ……というようなことを考えていると、周りから「やった!当たった!」という声が。
 その声の主は、今日はじめて競馬場に来た、という後輩でした。
「いやあ、今日ここに来る途中に、サニー(日産の車)とすれ違ったんですよ。だからサニーブライアンを買ったら、当たっちゃいました!!」


 ……競馬場には、今日も無情の風が吹く。
 ダービーだからと、それこそ、この一週間、あらゆる資料と知識を駆使して構築した僕の予想は、後輩の「ビギナーズラック」の前に、脆くも敗れ去ったのです。

僕にとっては、競馬なんて予想がつくようなものじゃない、ということを思い知らされた馬でした。
謹んで、ご冥福をお祈りします。

そういえば、あのダービーには、サイレンススズカも出ていたのだなあ。

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