琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「2011年本屋大賞」は『謎解きはディナーのあとで』

「2011年本屋大賞」は『謎解きはディナーのあとで』東川篤哉著(小学館)に決定いたしました!(本屋大賞公式サイト)

今回はかなり接戦だったようですが、結局、各地の書店員さんたちの「推し」が目立っていた『謎解きはディナーのあとで』が大賞に。
まあ、「万人に読みやすくて、楽しめる本」という意味では、悪くない選択なのかもしれません。
僕の予想は1位と3位が的中しましたが、『神様のカルテ』は意外と順位低め(「売れすぎている」からなのでしょうか)。
ふがいない僕は空を見た』が2位か……正直、これが1位にならなくてよかった……

あと、『錨を上げよ』の4位にはかなり驚きました。
みんな本当に全部読んだのか、あれ……

参考リンク「2011年ひとり本屋大賞」(琥珀色の戯言)(すべてのノミネート作品の感想を書いてます)

以下、受賞作の感想(再掲)です。


謎解きはディナーのあとで

謎解きはディナーのあとで

内容説明
執事とお嬢様刑事が、6つの事件を名推理!

ミステリ界に新たなヒーロー誕生! 主人公は、国立署の新米警部である宝生麗子ですが、彼女と事件の話をするうちに真犯人を特定するのは、なんと日本初!?の安楽椅子探偵、執事の影山です。
彼は、いくつもの企業を擁する世界的に有名な「宝生グループ」、宝生家のお嬢様麗子のお抱え運転手です。本当は、プロの探偵か野球選手になりたかったという影山は、謎を解明しない麗子に時に容赦ない暴言を吐きながら、事件の核心に迫っていきます。
本格ものの謎解きを満喫でき、ユーモアたっぷりのふたりの掛け合いが楽しい連作ミステリです。


内容(「BOOK」データベースより)
「失礼ながら、お嬢様の目は節穴でございますか?」令嬢刑事と毒舌執事が難事件に挑戦。ユーモアたっぷりの本格ミステリ

かなり売れているようなので、どんな本なのだろう?と手にとってみました。
僕はミステリマニアではありませんが、『このミス』のベスト10の3〜4作くらいは毎年読んでいます。
そういう「ミステリ慣れ」している人間からすると、この本って、「執事の毒舌」がちょっと目新しいだけの「読者参加型推理短編集」にしか思えなかったんですよね。
設定からは、筒井康隆御大の『富豪刑事』(ちょっと前に深田恭子主演でテレビドラマ化されていましたね)を思い出したのですが、『富豪刑事』は、「主人公が大金持ちであること」を利用したストーリーになっていたのですが、この『謎解きはディナーのあとで』では、主人公が「お嬢様」であることが「執事がいることの理由」にしかなっていません。
せっかくの設定が、ちょっともったいないような気がしました。
いやまあ、この執事・影山の

 「失礼ながらお嬢様――この程度の真相がお判りにならないとは、お嬢様はアホでいらっしゃいますか」

という慇懃無礼極まりないセリフは、なかなか痛快ではあるのですけどね。

個々の作品のトリックは、「なるほど」とは思うものの、少なくとも、驚くようなものは無いというか、中高生向きの「推理クイズ」レベル。
もちろん、僕には全然わからなかったんですが、解決編を読んでみると、「ああ、これはどこかで読んだことがある」という気がしました。

しかしながら、この作品、「気合いの入ったミステリを読むこと」に疲れてきた僕としては、けっこう良い「息抜き」にはなったんですよ。
最近の「本格ミステリ」って、解決編を読んでも「そんな複雑なの読者にわかるわけないだろ!」とツッコミたくなるような大掛かりものがほとんどで(「叙述トリック」っていうのもありますしね)、こちらは、「参加」することがほとんど不可能になってしまっているのです。
でも、この『謎解きはディナーのあとで』の「謎解き」は、読み終えたあと、「なんでこのくらいのトリックを見抜けなかったんだろう、ちょっと悔しいな」という気分になることができました。
そういう意味では、実に「ゲームバランスがとれた作品」なのかもしれません。
本格ミステリ」がどんどん専門化、細分化していく一方で、「もっとシンプルで読みやすい謎解き」へのニーズって、意外とあるのではないかなあ。

「もっと『スゴイ本』はたくさんあるはずなのに、いま、なぜこの本なのか?」
そんな「謎解き」をしてみると、なかなか興味深い本ではありました。

富豪刑事 (新潮文庫)

富豪刑事 (新潮文庫)

もりだくさんすぎ ☆☆☆


もりだくさんすぎ―yoshimotobanana.com 2010 (新潮文庫)

もりだくさんすぎ―yoshimotobanana.com 2010 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
いい仕事をしよう。大好きな人たちが幸せである姿に力をもらいながら旅をした。つらい治療にも通った。楽しいことと同じくらい、悲しい知らせも次々とどいた、もりだくさんすぎな一年。そして、みんなで準備した下北沢フリマでは、噂を聞きつけた人たちが道路を埋め始め…。読者と感動をわけあったイベントをふり返る特別エッセイも収録、感謝の気持ちが山盛りの日記+Q&A。


僕にとっての「よしもとばなな」という人は、「昔はけっこう好きだったんだけど、いつの間にか、どこか浮世離れしたところに行ってしまった」という感じでした。
僕も人並みに『キッチン』とか『TSUGUMI』は読みましたし、比較的最近の作品では『デッドエンドの思い出』なんて、大好きなんですけどね。
なんか、いつの間にあやしげなスピリチュアルにハマって、ロハスな暮らしを「アーティスティックな仲間たち」と繰り広げている「感じの悪い人」になってしまっていて……

そして、僕のなかには、以前書いた「この話」で、結果的に、よしもとさんがバッシングされてしまったという(僕側が勝手に感じている)後ろめたさ、みたいなものもあるんですよね。
あれは、「店のルール」と「サービス」のどちらを優先すべきか?というのが疑問になって書いたものだったのに、反応の多くは、「よしもとばななの態度がデカい」という類のものでした。
(いや、僕も正直、ちょっと嫌な感じもしましたし、その部分も含めて引用してしまったのが「問題」ではあったのだとは思います)


僕はけっこう「日記」を読むのが好きで、筒井康隆さんとか、大槻ケンヂさんの日記が書籍化されたものは、いまでもときどきパラパラとめくって愉しんでいます。
「どんな日常生活をおくっているか」というミーハー的な興味もありますし、「日常のなかのどういう面を、どんなふうに切り取って書いているか」というのは勉強にもなります。
よしもとさんの日記もけっこう読んでいるのですが、この『もりだくさんすぎ』は2010年の日記をまとめたものです。

僕はやっぱり、最近のよしもとさんの「スピリチュアルでロハスな生活」には馴染めないし、同じような生活をしている「友人」たちとの濃密な関係を「感じ悪い!」と思ってしまうところもあるのですが、その一方で、やっぱり、「作家・よしもとばなな」が日記にサラッと書いている言葉の「威力」に、のけぞってしまうこともあるのです。

小沢健二さんについて)

 彼がしているいろいろな活動、筋が通らないと思っている人のほとんどが「結局は名家の息子だろ」という妬みであると思う。しかし名家の息子は趣味で音楽をやっているわけではなく、彼の見たもの、行った場所、思ったこと、友達から聞いたこと、している活動、全てが時間をかけて音楽に還元されている、そこがいちばん大事なところだ。音楽がだめにならなければ、どんなことをしていこうと大人だから自由なのだ。ぶれずにそのことを見ていきたいとあらためて思った。

こういうのは、「吉本隆明の娘」にしか、書けないような気がします。

あるいは、

 ある意味「己はこうだ」と決めることこそがプロへの道かもしれん。

 りさっぴも言っていたが、客商売とは全て、どこにターゲットをしぼるかで決まってくる。来ないでほしい層を思いきって切り捨てる勇気も必要。はじめは来てほしい層だけに手厚くしぼって、そこからじょじょにお客さんのほうが変わっていく道筋がいちばんいい。それがない宿は、のっぺらぼうになるか、おかみさん一家に似た層が来るだけになる。

こういう、短いけど本質的な言葉が、この日記のなかにはたくさん出てくるのです。
今回読んでみて、「食わず嫌い」は良くないなあ、とちょっと反省。
僕とよしもとばななさんの人生観は全く違うけれど、だからこそ、「活かせることば」は少なくないのかな、と思います。
しょっちゅう海外に行ったり、おいしいものばっかり食べやがって!と不快になるところがあるのも含めて、けっこう面白い日記でした。

 枝ごと落ちてくるようなすごい分量の枯れ葉を熊手でそうじしているおしゃれな人を見て、森先生が、
「あの落ち葉の量に熊手っていうのは、効率的にありえないと思うんだけれど、きっとそういうライフスタイルなんだろうなと思って、言わないようにしてる」と言っていたのが、最高にツボで、夜寝るときまで思い出して笑った。

スピリチュアルな言動が最近は目立つよしもとさんにもかかわらず、あの「論理的思考が人間のかたちをしているような」森博嗣先生と交流があるというのは、僕にはかなり意外でした。
でも、「論理的な科学」「非論理的なスピリチュアル」なんて分類するのは僕のような外野の偏見であって、「すごい人」どうしでは、そんなレッテルはどうでもいい、「相互理解」みたいなものがあるのかもしれませんね。
あるいは、お互いの「違い」を愉しめる余裕、というか。


デッドエンドの思い出 (文春文庫)

デッドエンドの思い出 (文春文庫)

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