- 作者: 大崎善生
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/05/07
- メディア: 文庫
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出版社/著者からの内容紹介
村山聖、A級8段。享年29。病と闘い、将棋に命を賭けた「怪童」の純真な一生を、師弟愛、家族愛を通して描くノンフィクション。新潮学芸賞受賞作。重い腎臓病を抱え、命懸けで将棋を指す弟子のために、師匠は彼のパンツをも洗った。弟子の名前は村山聖(さとし)。享年29。将棋界の最高峰A級に在籍したままの逝去だった。名人への夢半ばで倒れた“怪童”の一生を、師弟愛、家族愛、ライバルたちとの友情を通して描く感動ノンフィクション。第13回新潮学芸賞受賞作
「怪童」と呼ばれた男、村山聖。
この作品は、29歳の若さで亡くなった天才棋士の物語であるのと同時に、どこにでもいる「非モテ」の物語でもあります。
作品中に、村山聖の「才能」について、『将棋世界』の中野隆義編集部員が書いたこんなエピソードが引用されています。
東京将棋会館の桂の間という棋士たちが集まってその日の将棋を検討している控室での話。
「ね。村山くん。どお」
村山より先輩格の棋士がタイミングよく声をかけ、皆の視線が一斉に村山に向けられた。
ものうげに身を起こした村山は、顔だけを盤面の方へ近付ける。盤を村山との空間をさえぎっていた棋士がのけぞって村山のために視界を開いた。目を細めたまま、数秒盤面を見遣ると、村山は一言「詰みます」とだけ言って再びだるそうに身を沈めた。つまらんものを見ました、と顔に書いてある。
「ほんとに詰むの。村山君」
「…………」
「ねえ、どうやるのかな」
「詰みます」
「…………」
部屋には、険悪な雰囲気がちらと見えてくる。村山の力を見ようという下心半分の気持ちを見透かされた上に、バカにされかかっているかのようなやり取りである。
「ねえ、ほんとに詰むんだったら、どうやって詰ますのかなあ。教えてよ、どうやったら詰むのかなあ」
おどけてはいるが、マジに答えなかったら許さんゾの気合が籠もっている。
こりゃ、面白いことになってまいったぞと聞き耳を立てる記者のその耳に入ってきた言葉は、信じられないものだった。
「どうやったら詰まないんですか」
スコーン。と、満塁ホームランを場外まで持っていかれる音が、頭の中でした。こりゃ、モノホンだ。すげえのが出てきたな」と、思ったものである>
こんな言動が数々の噂を呼び、それはやがて逸話となって、村山の存在感は東京においても確実なものになっていく、人はいつかこう言うようになった。
東に天才羽生がいれば、西には怪童村山がいると。
あの羽生さんと並び称されるほどの棋士だった、村山聖。
しかしながら、将棋の神に捧げられた彼の生涯は、ネフローゼ、そして膀胱がんという病との終わらない闘いでもあったのです。
ところが、作者の大崎さんは、村山聖の物語を「悲劇」として描きませんでした。
もちろん、読んでいて思わず目頭が熱くなるような場面もあるんですよ。
でも、将棋の神に愛された男は、ものすごく、不器用で、そして、ワガママでもありました。
「病気だからしょうがない」「将棋以外のことは目に入らなかったのだろう」と「理解」しようと思いながらも、僕はこんなエピソードに苦笑してしまいました。
森は何だかだんだんと馬鹿らしくなってきた。自分の子供でも恋人でもないのだ、どうして心配して部屋を訪ねて廊下で待たされた上に何を言っても無視されなければならないのだろう。
「もう、わし知らん。帰るで」 しびれを切らして森は言った。するとまたごそりとゴミの山が動いた。
「あのー」
蚊の鳴くような声が聞こえた。
「森先生」
「何や?」
「のり巻きを買ってきていただけませんか?」
「腹、すかしとるんか?」
「はあ」
村山の声を聞いたとたん、森はなぜか吹き出しそうになってしまった。さっきまでの腹立たしさが、一瞬にしてどこかへ消え去っていた。
村山はまるで待っていたかのようにのり巻きの種類と、それを売っているコンビニの店まで指定した。「それと」と言って村山はやっとゴミの山から顔を出した。しかし森が蛍光灯の紐を引っ張るとまた慌てて顔を引っこめてしまった。何日も暗闇の中ですごした村山にとって、蛍光灯の光ですら眩しすぎるのだ。
「それと、ミネラルウォーターもお願いします」と村山。
「あんなあ」と森は言った。
「はあ」と村山は答えた。
「どこのや?」
「南アルプスの天然水です」
森は自転車を走らせコンビニに向かった。もう午前2時を過ぎようとしていた。自転車を漕ぎながら森は思った。師匠である自分が何で夜中に買い出しに走り回らなければならないのだろう。しかも、そんなことが平気などころかどこかで喜びさえ感じている自分が、さすがに不思議に思えた。
「森先生」とは、村山聖の将棋界での「師匠」にあたる、森信雄さんのことです。
村山聖は、17歳も年上の「師匠」にこんなふうに甘えたり、病気にもかかわらず、急性アルコール中毒で救急病院を受診したり、一人暮らしのアパートでミステリと少女コミックと将棋に埋もれて生活したりしているのです。
そして、読んでいてつらかったのは、彼が「身内」である母親に対して、けっこうキツくあたっていた場面。
部屋を片付けてくれた母親をアパートから追い出したり、見舞いを拒否したり。
それが「甘え」や彼自身の「幼さ」の裏返しであることが読んでいる僕にもわかるだけに、周囲の人たちはつらかっただろうなあ、と考えずにはいられませんでした。
「聖人君子」ではないところまで、ちゃんと描いたのは、大崎さんが村山聖さんと生前から深い交流があったからなのでしょう。
「そういうダメなところも含めて」多くの人が、村山聖を応援していたのです。
でもね、そういう「良くも悪くも、人間の弱さから逃れられない勝負師」というのが、村山聖という棋士の、とてつもない魅力なんですよね。
ひとりの「死が身近なところにあった人間」の強さと弱さ、傲慢さと謙虚さ、優しさと冷酷さが、この『聖の青春』には溢れています。
そんな彼に温かく接する人たちと、勝負の世界の厳しさ。
「早く、将棋をやめたい」と村山は口癖のように言い、周囲の人間を驚かせた。
広島に帰郷した折に母トミコにまず毛布や蒲団をむやみに洗濯しないでほしいと言った。自分の匂いのついたものがいとおしく、自分はその中ではじめて安心して眠ることができるのだ、だから新しいものに替えたり洗濯したりしないでほしい。それから、トミコが買い求めておいた二着の背広のうち一着を返しにいくようにと言った。もったいない、一着あれば十分だというのである。
そして、将棋の話になった。
プロになって思うことは、勝負の世界というのは何もない真っ白な世界だということ。将棋盤を目の前にして、よいも悪いもなくただ自分はいつも真っ白になっている。そこは神も入りこめぬ神聖そのものの世界である。しかし、勝負には決着が着く。僕が勝つということは相手を殺すということだ。目には見えないかもしれないがどこかで確実に殺している。人を殺さなければ生きていけないのがプロの世界である。自分はそのことに時々耐えられなくなる、人を傷つけながら勝ち抜いていくことにいったい何の意味があるんだろう。
そして、早く将棋をやめたい。名人になって、将棋をやめたいと何度も呟くのだった。
この作品を読んでいると、「自分の欲求に忠実に生きること」って、意外と「気高い人間の生きざま」なのではないか、と思えてくるのです。
その一方で、そういう人の傍にいた人たちのことも、あれこれ想像せずにはいられません。
蝶野正洋が「あの人は遠くから仰ぎ見れば太陽だけど、近くにいるとその熱で焼け死んでしまう」と、アントニオ猪木を評したという話があります。
「村山聖を支えた人たち」は本当に大変だったと思うし、彼の場合はとくに、「支える人たち」がなければ、あるいは「将棋との出会い」がなければ、こんなすごい一生をおくることは無かったのかもしれないな、という気がします。
29歳の若さで亡くなってしまったのは「もったいない」。
でも、村山聖は、けっして「かわいそうな人」じゃない。
むしろ、かわいそうなのは、「長く生きてはいるけれど、生きる意味とかを考えて時間を過ごしているだけ」の僕のほうかもしれない。
うまく言葉にはできないのですが、キレイ事だけじゃない、「生きること、生き尽くすこと」について書かれている、素晴らしい作品です。
将棋が全くわからなくても問題なく読めますので、ぜひ御一読を。