琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

さようなら、『テキスト庵』


 もう何をいまさら、という感じなのかもしれないが、やはり、ひとことだけでも書き残しておきたいと思う。

参考リンク(1):テキスト庵(現在は運営者の声明のみ)

参考リンク(2):テキスト庵10周年(琥珀色の戯言)


今回の件は、この「告発」がきっかけでした。
参考リンク(3):職業倫理の欠如したチャリティプロジェクト(ring the bell)


これに対する、当事者からの返信がこちら。
参考リンク(4):チャリティ似顔絵プロジェクトに関する謝罪(avocadobananaの日記)


 七夕の夜に「声明」が出るというのを見たときは、「ああ、これで閉鎖なのか」と寂しくなった。
 率直に言うと、僕は荒らしている側はもちろん、運営側も応援する気にはなれなかった。
 Twitterに「常連さんたちが、みんな『あえて触れないようにしている』のに違和感がある」とも書いた。
 これに関しては「詳細もわからないのに、何かを言うのは無責任だから」というコメントを見て、なるほどなあ、と思った。
 そして、人と人との諍いには「それぞれにとっての事実」があるだけ、ということも多い。
 僕だって医者として、相手の「思い込み」による、理不尽ともいえるような暴言にさらされたこともある。だが、相手の家族や友人は、それを「理不尽」だとは、最後まで思ってはくれなかった。
 「話せばわかる」人もいる。でも、そうじゃない場合もある。残念ながら。

 ネットでものを書くというのは、ブログで社会を語るというのは、多かれ少なかれ、他者にコミットして、「想像でものを言う」ことでもある。
 今回の事例に関しては、告発があり、当事者が認めている範囲でも、「語ろうと思えば語れないことはない」くらいの情報はあった。
 「無責任だからコメントできない」のではなくて、「興味がなかった」のか「めんどうなことにかかわり合いたくなかった」のか「友人を傷つけたくなかった」かのいずれかだったのだろうと思う。
 別に、それは責められるべきことではないけれど。


 今回の休止(閉鎖)コメントに「解散」という言葉が使われたのは、ひとつの象徴だと感じた。
 テキスト庵は、ある時期から(あえて言えば、10周年記念のイベントくらいから)、いわゆる「常連」たちと「運営者」との結びつきがすごく強くなっていったような気がする。
 それが、テキスト庵を、さらに閉鎖的にしていった。
 誤解を招かないように言っておくと、テキスト庵は、10年前から、けっこう「閉鎖的な」サイトだった。
日記才人』や『Read Me!』のような「なんでもあり」「とにかく注目を集めたもの勝ち」という雰囲気ではなく、「文章を書くのが本当に好きな人」のための場所、という感じがしていた。
 登録サイトがそんなに多くなかった、ということもあって、今回の閉鎖に関する文章にも「テキスト庵は最初は敷居が高かった」と書いてあるものが散見されたし、僕も最初はそう感じていた。

 当時は、「こんなの登録してもだいじょうぶかな?」というような、テキストに関しての敷居は高かったけれど(「段落文体じゃない!」って怒る人がいたのだ、本当に)、登録者のなかでの「常連」と「そうでない人」との敷居は、そんなに高くなかったような気がする。
 『テキスト庵』は、「人間関係」の場所ではなくて、「テキスト関係」でつながっている場所だった。

 それが、去年の10周年記念オフ会くらいから、次第に「人間関係の場所」になってきたような印象がある。
 仲良くなって、『テキスト庵』を自分のもののようにふるまう常連たちは、『テキスト庵』をmixiの少人数コミュニティのようにしてしまった。
 実際、ここ数年は、新しく参入してくるテキストも、かなり減ってきていたしね。
 ブログを書いている人は、まだまだたくさんいるはずなのに。
 もっとも、多くの人はmixitwitterに流れてしまって、他人に公開するための「段落文体の文章」なんて書かなくなったのだ、という「時代の趨勢」が、あるような気もするけど。

 今回の件は、「個人情報漏洩事件」が直接の引き金で、あの「ウォッチサイト」がトドメをさした、ということになるのだろう。
 僕はあの「テキスト庵炎上サイト」の「個人情報漏洩まで行って、嫌がらせをする人間」を許せない。
 だが、「あれで、『個人情報を手軽に扱われること』の怖さ、不快さが少しでも運営者たちに伝わったのだろうか?」とも思う。

 「直接の友人・知人」になってしまった常連さんたちが、「信じる」のを否定するつもりはない。
 だが、一登録者の僕にとっては、あの「チャリティイベントでの個人情報漏洩事件」は衝撃的なものだった。
 この人たちは、『テキスト庵』というサイトで10年かけて積み上げてきた「信頼」「人脈」を使って「大震災へのチャリティ」の名の下に個人情報をかき集め、応募してきた人を酒の肴にして喜んでいるのだと思うと、反吐が出た。

 社会人であれば、自分の悪口が誰かの酒の肴になっている可能性を想像はしているはずだ。
 そんなこと一度もないという人は、すごく幸せだと思う。
 僕の場合は「それはしょうがないから、そのことが僕に知られないようにしてほしい」と祈っている。
 でもね、それをやった側にとっては、「酒の上での失態」「人間誰しも過ちはある」だったのかもしれないけどさ、そうやって笑い者にされた側になって考えてほしい。
 自分のことを酒の肴にされ、それをやっている人が、職場の同僚ならともかく、「ネットでのつながりから、信頼して個人情報を教えた人」だったら、許せますか?
 あの地震へのチャリティの名のもとに、そんなことをする人間を、信用できますか?


 運営者=『テキスト庵』ではない、という意見もある。
 僕もそれはそうかな、と思う。
 でもまあ、『テキスト庵』をやっている人たちだから、信用して個人情報を明かした、という面は、少なからずあるだろう。

 実際、『テキスト庵』の運営者が替われば、存続しても文句を言う人はあまりいなかったはずだ。
 とはいえ、あれだけのサイトを11年間も無償で続けてきた運営者と急に交代できる人など、そうそういるわけもない。
(正直、「閉鎖するな」って言っている人は、それなら自分でやればいいのに、とも考えてしまう)


 あの事件について、当事者どうしで和解ができれば、それがいちばん良いことなのだろう。僕もそうであってもらいたいと思う。
 それは、これから先だってそうだ。
 たしかに、「誰にだって過ちはある(こういうのは、自分で言うとみっともないけど)」そして、被害者側だって、ずっとトラブルを抱えたまま生きていくのは、けっこう大変なはず。
 怒りのエネルギーを燃やし続けるのは、すごくつらいものだから。

 秋元康さんの、こんな言葉を紹介しておきます(『秋元康の仕事術』より)

 人に悪口を言われたとしましょう。悪口を言われたら、みなさん傷つくでしょう。でも僕は、悪口を言われてずっと落ち込んでいる人によく言うんですけれども、悪口を言った張本人は言った瞬間に満足することが多いんですね。それでもう充分で、そのあとは友達と飲み屋でバカ騒ぎをしているか、テレビを見て大笑いして、とっくに忘れてしまっています。それなのに言われた被害者のほうが引きずってしまうんですね。そうやって、ずっと傷ついている人というのは、何かこう、おならを手に握って、ずっと嗅いでいるような感じに見えるんです(笑)。もう、いいじゃないですか。その瞬間は臭かったんだからと思うのですが、すごく大事に、何度も何度も「くせぇなあ……」と言っているように見える。それは、非常にもったいないと思うんですよ。なぜなら、いつかは忘れるわけじゃないですか。だったら早いほうがいいでしょう?


 それにしても、10年かけて積み上げた信頼が、思いつきで作られた批判サイトに半日で潰されるというのは、サイトを長年やっている僕にとっても、「なんだかなあ」とは思う。他人事じゃない。
 「荒らす側」と「荒らされる側」は、ものすごく不平等なのが、ネットの世界。


 『テキスト庵』は、僕に「読んでもらうこと」の喜びを教えてくれた場所であり、おかげでたくさんの「知り合い」もできた。
 ここでは厳しいことばかり書いてしまったけれど、本当に感謝しているし、11年目に起こったこの一件だけで、『テキスト庵』のすべてがダメだった、などと思ってほしくない。
 「終わり」が美しくなかったからといって、そこまでのプロセスを全否定しないでほしい。
『Read Me!』『日記才人』無きあとも、「文章を誰かに読んでもらいたい人のための、最後の砦」であり続けてくれて、ありがとう。


「他のサイトを誹謗中傷するブログ」を放置して「民事不介入!」の態度を崩さなかった運営者に感心していた一方で、僕が悪口を言われる当事者になったときには、「何もしてくれない」むしろ、「放置して、『祭り』になるのを楽しんでいるように見える」ことに、腹を立てたこともあった。
 僕もサイト管理者なので、「中途半端に手を出すと、かえって火が広がってしまう」のもわかる。
 わかるけど、自分が渦中にいるときには、やはり、腹が立っていたのだ。
「これはさすがに、単なる『愉快犯』だろう……」というようなものが、放置されていたのもあったんだよね。


 ただ、これは運営者の名誉のために言っておくべきだと思うのだが、運営者は、最後の最後まで、『テキスト庵』や運営者、そしてその配偶者ての批判も含めて、更新報告や特定のサイトを「排除」したりはしなかった。
 それは、すごく立派だったと思う。いや、立派すぎたかもしれない。
 例のサイトは、『テキスト庵』に「更新報告」させなければ、自然に枯れていったかもしれないのに。
 そういう「純粋さ」が、参加者に愛されたゆえんだったのかもしれないし、そういう「リスクマネージメントの甘さ」が、こういう事態を生んだのかもしれない。
 それは、「諸刃の剣」だ。
 ただ、最後の最後に、「閉鎖」ですべてをリセットというのは、致し方ない面はあるにせよ、これまで、「民事不介入」を貫いてきた人でも、自分や周囲の人が被害者になると、こんなふうに強権を発動するのだな、とは感じた。
 やっぱり、人間ってそんなもんだよね。


 この話のおしまいに、(もし誰か読んでいてくれるとするならば)『テキスト庵』に登録していた人たちに言わせてほしい。
 『テキスト庵』が無くなっても、あなたが書いていた文章が無くなるわけじゃない。「入り口」のひとつが無くなってしまっただけのことだ。
 『テキスト庵』への気持ちはさておき、更新を続けてほしい。
 『テキスト庵』が無くなってあなたが感じたのと同じ寂しさを、あなたのブログの読者に与える必要なんてないはずだから。


 それじゃあ、さようなら、『テキスト庵』。
 僕も遠からず、そっちへ行くよ。


僕のtwitterはこちらです。
http://twitter.com/#!/fujipon2

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