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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

「きっと何者にもなれない」あなたへ

雑記 WEB

参考リンク:先日、twitterでこういう言葉を拾いました。「きっと何者にもなれないオタクに限って、写真…カメラ極めようとするよね。」なんとなく同意するところなんですが、ここで質問です。自分を何者だと考えますか?(ザ・インタビューズ)



 この参考リンクの記事を読んでから、ずっと「僕は何者なのか?」と考えていた。
 いやそもそも、何者になりたかったのだろうか?


 僕の父親は医者だったのだが、仕事を終えたあとは飲みに外に出ることが多かった。
 それで酔っぱらって帰ってきて、酒臭い息で説教されるのも悲しかったのだが、仕事のことではなく、「飲み屋での自分の顔の広さ」を自慢するのがすごくイヤだった。
 「あなたは、何者なのだ?」って。

 医者というご立派な職業についたからには、もっと仕事を熱心にやって、その世界で認められようとするのがスジではないか。
 にもかかわらず、夜の街でのこと、「あんな人と知り合いなんだ」とか「あの店は俺がいないとやっていけない」みたいなことを自慢するのは、すごく恥ずかしいことだ。


 でも、いまもうすぐ40歳を迎えようとしている僕には、あの頃の親の気持ちが、なんとなくわかるような気がする。
「反面教師」のおかげで、とりあえず「夜の街での人脈自慢」には陥らないですんでいるけれども。


 医者というのは、世間的にみれば、「ご立派な職業」のひとつだろう。
 しかしながら、世の中はそんなに甘くはない。
 医者の世界のなかで、他者とは代え難い「何者か」になるのは、本当に難しい。
 この世界には「呼吸をするように勉強する人たち」がいるのだ。
 ちょっと勉強ができて、世のため人のためになる仕事がしたかった、という人たちは、学問の世界で上り詰めていくのは至難だ。
 結局のところ、「医者としての評価を極める」ことに限界を感じると、高級外車を乗り回したり、夜の街で顔になったり、お金を稼ぐことに執着しだしたりする。
 なまじっか、「何者かになろうとして」医者になってしまったばかりに、「自分が何者でもなく、医療という大きな機械のなかの、いくらでも代わりがいる1個の歯車」でしかないことがつらくてしょうがない。
 中には「医者らしくない医者」として、「存在証明」をしようとする者も出てくる。


 と、他人事のように書いてきたけれど、「ブログを書きまくる医者」である僕も、その一味であるわけだ。
 こうして「書くのが好きなんですよねー」なんて言いながら年を取り、こんなはずじゃなかったのに、と内心思いながらも、みんなに「ありがとう」とか言い残して死んでいくのかなあ、と悲しくなってもくるのだ。


 これはたぶん、医者の世界に限ったことではないはず。
 というか、医者という職業だけで、「あなたは何者かになった」と評価してくれる人もいるけれども、当事者にとっては、そういうものでもないんだよなあ。


 「写真」とか「文章」というのは、「何者かになるはずで、なれなかった人たち」の最後の受け皿になりやすい趣味だ。
 いくらなんでも、僕の年齢になって、「プロ野球選手になって、カープを優勝させる」とか、「政治家に転身して、首相になる」なんていうのは、妄想でしかない、それは理解できる。
 ところが、写真とか文章というのは、「プロとアマチュアの違いが、(素人には)わかりにくい」だけに、「いまからでもできるかも!」と思いこみがちなのだ。
 僕にも、「夏目漱石がデビューしたのは、30代後半だった」などという特例に希望を見いだしていた時期がありました。


 ところが、その気になって少し勉強をはじめてみると、その世界の奥深さに愕然とすることになる。
 作家の文章をプロ野球の1軍とするならば、ブログの文章は2軍だ。
(本当は四国アイランドリーグくらいなのだろうけど、わかりやすいように今回はこれで話そう)
 もちろん、2軍ですぐに頭角を現し、1軍で大活躍する選手もわずかだが存在する。
 だが、大部分の「2軍のエースや4番」たちは、1軍に行けば敗戦処理でも打たれ、代打に出れば振り遅れて三振だ。
 そのくらいのレベルの違いがある。
 裾野が広くて、みんなができそうだと思い込んでいるというのは、裏を返せば、チャレンジャーが多いということ。
 そして、狭き門のわりには、そんなに儲かるものでもない。


 僕がこの年齢になって感じるようになったのは、「自分は何者にもなれないのだ」と知ってから、本当の「人生」がはじまる、ということなんですよ。
 僕が村上春樹さんの作品の登場人物に惹かれるのと同時に、「浮世離れしている」と批判したくなるのは、彼らはみんな「何者でもないけれど、自分のやるべきことを、淡々とやっている人」であり、「それを自分で受け入れている人間」だからなのです。


 『コクリコ坂から』という映画を観ながら考えていたのだけれども、結局のところ、大部分の「何者にもなれない人間」にとって根源的な「しあわせ」みたいなものって、「おいしい朝ご飯を食べて、おひさまの香りがするふんわりとした布団で寝ること」に尽きるのではないだろうか。
 「何者か」であろうとするより、「生物としての根源的な喜び」を積み重ねていくほうが、「正しい」のかもしれない。
 何も好きなものがなく、感情移入することもなく、ひたすら「生物として生き続けること」に集中できれば、ラクになるよねきっと。
 いや、それほど味気ないこともないのかな……


 アルコールとかギャンブルとか恋愛とかネットとか、「やらなくても死なないこと」なのにね。


 ……というようなことを文章にしているだけでも、僕はこの「何者かになりたい病」から抜け出せない人間であることを証明しているのですけどね。


 うーん、思っていたことがうまく書けていないのだけれども、僕のなかでもうまく整理できていない話でもあり、未完成のままとりあえず置いておきます。