琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「作家と読者をつないできた人たち」の話

電子書籍の将来は? 京極夏彦さん「紙のまねしないのが大事」- SankeiBiz(サンケイビズ)

人気作家たちの「自炊代行業者提訴」をきっかけに、「自炊」および、それを業者が代行することの是非についての議論が盛り上がっています。

そんななか、紙の書籍と電子書籍版の同時発売など、「電子書籍に理解がある作家」京極夏彦さんのこのインタビューは、非常に興味深いものでした。

京極さんは、「電子書籍が紙の書籍を駆逐する」と考えているわけではなくて、「紙の書籍と電子書籍は併存しうるし、電子書籍というのは、本を読む機会を増やすチャンスにもなりうる」と感じておられるようです。
紙の本のなかでも、単行本と文庫本が「うまくやっていっている」ように。


僕自身は、「紙の本の置き場に困っていたり、好きな本をスマートフォンに入れて持ち歩きたい人のために、「自炊」の存在は許してほしいと思っています。
実際、提訴した作家たちも「自炊そのもの」を訴えているわけではなくて、「自炊代行業者」を訴えているわけです。
まあ、なかには「本がこんなに裁断されてしまうなんて耐えられない!」と仰っている有名作家もいらっしゃるようですが、少なくとも提訴されているのは「自炊代行業者」なのです。


ただ、ネットでの反応をみていると、今回の件に関して「電子書籍をつくらない出版社側の怠惰」を責めている人も少なからずいるようです。


出版社や取次や書店による「中間搾取」がなくなれば、もっと本は安くなるのではないか?

僕もそう思っていました。
でも、電子書籍についてのさまざまな本を読んでみると、必ずしもそうはならない。
あるいは、「本を安く売ることができる」としても、それが良質な作品であるかどうかは疑問です。


京極さんは、前述のインタビューのなかで、

「『死ねばいいのに』は、(多機能端末)iPad(アイパッド)の発売と合わせ電子書籍を配信したので、(話題性もあって)確実にハードカバーの売れ行きが伸びた。電子書籍が出たことで紙の本が売れなくなったことはない」

と仰っておられます。


それと同時に、出版社の今後については、こうコメントされています。

−−出版社を通さず、作家が配信先と直接契約を結ぶ形も想定されるのでは?
 「考えられる。ただ、小説は書いただけでは誰も読まない。(紙の本の場合)装丁され、本という商品になって流通しないと完成しない。紙の質からインク、活字の種類に至るまで目配せの効いた商品のほうがいいに決まっている。それは編集者の仕事。出版社はソフトを作る上で『自分たちが必要なんだ』という自覚をしっかり持ってほしい」

「電子出版に消極的な作家や出版社を責める人々」の意見の中には、「この人たちは、ITに詳しいかもしれないけれど、本が好きではないんだろうな。ITに無知な人々を嘲笑するために、この話題に乗っかっているだけなんじゃないかな」と感じるものが少なからずあります。


というわけで、僕はここで、「作家と読者をつないできた人たち」の話をしてみようと思うのです。
作家が直接作品を「配信」すればいい、そうすればもっと本は安くなるし、電子書籍化で本は「便利」になる、と考えている人に、ぜひ読んでみていただきたい。


2006年に出版された「書店繁盛記」(田口久美子著・ポプラ社)より。


書店繁盛記 (ポプラ文庫)

書店繁盛記 (ポプラ文庫)

 出版界全体は不景気だが、自費出版はますます隆盛である。不景気な昨今、こんな美味しい市場がまだあるんだ、と古狸の私でさえうなずいてしまう。注文制で製作リスクも販売リスクもない、はっきり言って丸儲けの市場だ。しかも客単価が高い、最低でも1件50万は堅い。あとは客が来るのを待つばかり、小規模の出版社はホームページで募集、大規模になれば、新聞広告を大きく打って、待っていれば来る。「契約書店で販売も可能」とさらに重ねればもっと来る。「大型書店で相談会」と銘打てば、もっともっと来る。営業と編集、広告経費だけが原価。重ね重ね美味しい市場だ。ジュンク堂のように商売の邪魔するやつが現れたら、怒鳴り散らせばいい、客は書店でも読者でもなく注文主なのだから。


 先日ひょっこりと訪ねてきた友人が「母親が自費出版で本を出してね」と椅子に座るなり切り出した。へー、お聞きしましょう。
 彼女の母親は自費出版社界の最大手で出版した、という。最大手だけあって一つ一つ両者納得ずくで契約を結んでいる。「こんなにすばらしい原稿なんだから、きちんとハードカバーで、って担当編集者は言うのよ」ということでまず150万円位の見積もりから始まって、写真が入って、地図が入って、と少しずつ製作経費が高くなっていく。「それで、本になったら書店で売りたいかって聞かれたそうなの、売るならあと50万、営業マンが書店で販促するならあと50万、って高くなっていくみたい。広告を打つならあといくら、っていう具合に」なるほど、かかる経費はきちんと注文主の負担、というマニュアルができている。書店での経費が妥当な金額かどうかは別として。「私が反対して、書店で売ることはやめたの、誰が買ってくれるのよ、って言ったら母親は悲しそうだったけれど」
「本にするのが長い間の夢だったんでしょう。道楽にしてはそんなに高くはないと思うけれど、形になって残るから」「そうなんだけどさ、母親が不満なのは、ほら、自分は素人だから、ちゃんと原稿を直してほしかったみたい。編集部がきちんと手を入れてくれれば、いい本になると思っていたらしいの。それが原稿を渡して、次に編集者が来たときには、もう印刷に回したって言われてがっくりきたみたい」丁寧な創作指導、というのはまた別料金だったのかもしれない。
「お母さんは戦争中、天津で暮らしたんだ」「そう、だから子供の頃のことを書いて、もし万が一にでも当時の知り合いが読んで連絡をくれたら、って思ったらしいのよね。でも名前を全部KとかSとかに変えられちゃったらしくて、そこのところだけはきっちりと直されたみたい、あとは全然なのに」
 大手の出版社では月に150点から200点も出版している、という話しだ、いくらお客さんとはいえ、リピートはないわけだから、いちいち入れ込んで構成しなおしたり、文章を直したりしている余裕はないのだろう。なんといってもお客は次から次ヘと来る。
「分かった、この1冊を棚に入れておいて、売れたら連絡するわ」といって預かった。『天津租界の思い出』(豊田勢子 文芸社 04年)


 しかし、本のプロとアマを分けるのはこの編集力ではないか、とつらつら思う。私たちが「自費出版」という分類わけをするのも、そのへんに理由がある。出版社と著者の契約で「書店におく」と決められた本が取次から入荷し、小説なりエッセイの棚に入れるとなんだか浮くのだ、プロの作った他の本にはじかれてしまう。前述の怒鳴り込み事件のときに我らの担当者が本音を漏らしたように、一般小説の棚に入れるのを躊躇させる出来なのだ。
 もっとも、まとめると探しやすいという安易な理由もあるのだが(私たちのように自費出版物をまとめて棚にして販売している書店は多い)。専門書ジャンルにはお金にならない研究をコツコツとして、採算が取れるだけの市場がないための自費出版、というのはあるだろう。そんな実学・実用のジャンルと小説・エッセイのジャンルは読まれ方も買われ方も違う。市場は成熟している。どうやって読者に手にとってもらうか、買ってもらうか、読んでもらうか、編集者は本の中身はもちろん、頭を絞ってタイトル、レイアウト、装丁、帯の惹句を考える。とにかくお客さんにお金を出してもらわなければ、商売は成り立たない、と必死になる。
 一方自費出版本は出版社にはとうに採算の取れた本だ、売りたいというオーラは薄い。たとえ力を入れて作ったとしても、ほとんどが無名の著者、新人登竜門の扉は固い。勝負はハナからついているのだ。入社したてのアルバイトにも「あれっ? これは自費系?」などと簡単に仕分けされてしまう本まである、どころか、ほとんどだ。つまり自費出版社は読者に顔を向けていない、マーケットを全く考慮していない、という意味で一般の出版社との間に線が引かれている。
 著者のプロ・アマと出版(編集)のプロ・アマの組み合わせがポイントなのだ。「アマの著者と出版」組が販売力のない本を生み出しているのが現状で、それを私たちは「自費出版社系出版物」と呼んでいる。


『番線―本にまつわるエトセトラ』より。

番線―本にまつわるエトセトラ (ウンポコ・エッセイ・コミックス)

番線―本にまつわるエトセトラ (ウンポコ・エッセイ・コミックス)

校正者:あなた 30P,42P,43P,50P,52P,73P,137P,155Pでは「愛してる」と言っているのに、このページと207Pでは「あいしてる」でいいんですか?
(どの単語がひらがなか漢字か全ページをチェック!!)

それに対して、著者も校正
「いいんです! ここは感情込めてひらきます!」

校正者:他のページは「愛してる」に統一してよろしいですか?

「ええ、おねがいします」

それは6月8日、金曜日の出来事だった。

校正者:この話は何年の設定? 金曜日は2005年、2006年どちらにも該当しませんが

―――というなり、彼は急にきびすを返して

校正者:え? 彼って前のページで座ってましたよ。いつの間に立ったのですか?

僕はこういう本を読むまで、「校正」って、「誤字・脱字を直す」だけの仕事だと思っていました。
ここまで内容に踏み込んで「正して」いるのか……
よっぽど「読める人」「妥協しない人」じゃないとできない仕事なのです。



『編集者の仕事』(柴田光滋著・新潮新書)より。

編集者の仕事―本の魂は細部に宿る (新潮新書)

編集者の仕事―本の魂は細部に宿る (新潮新書)

 それはともかく、ゲラから始まる大事な作業が校正。私が書けるのはあくまで編集者から見た校正であって、本職の方からすれば物足りないかぎりでしょうが、その仕事に対する敬意だけは失わずに記すつもりです。
 出版界ではしばしば「校正、畏るべし」と言いならわす。もちろんこれは『論語』における「後生、畏るべし」のもじりなのですが、編集者の側から長年にわたって数え切れないほど痛切に感じてきました。
 校正は編集者もしないわけではありませんが、本来は別の役割。編集者はどうしても流して読んでしまうので、きちんとした校正はまずできないからです。
 幸いなことに私はすぐれた校正者に恵まれ、何度となく命拾いをしてきました。言わば命の恩人。さらには、自分で本を出してみて、校正のありがたさを著者の立場からも実感することができました。一応は編集者ですから、あまり恥ずかしい原稿にはしたくない。そう心して書いたつもりなのですが、ひどい誤記がいくつもありました。
 ここでは一つだけ挙げておきます。ギター好きであった高校生の頃に出会って感嘆した言葉「ギターは音が小さいのではない。遠くで鳴っているのだ」をベートーヴェンの言葉としてしたところ、「ストラビンスキーではないか」と指摘されました。四十数年も前に読んだ本で調べ直してみると、たしかにその通り。ベートーヴェンの言葉は「ギターは小さなオーケストラである」でした。両者をいつからか入れ違えていたわけです。
 編集者として扱った原稿なら数知れず。ほんの少しだけ思い出を記しましょうか。ある歴史小説で、これぞというタイミングで後白河法皇が出てきたのですが、「この時点では後白河法皇はすでに亡くなっています」。嗚呼! また、ある小説では主人公が北海道の海岸で北斗七星を見る美しい場面があったのですが、「この時期にこの場所からは見えないはずです」とあり、詳しい説明が付いていました。またしても、嗚呼!
 昔も今も「校正、畏るべし」。
 校正者が疑問(現場ではもう少し柔らかく「ギモン」と書く)を出す場合、典拠となる資料のコピーが時には何種類も添付されています。ネット上の情報で簡単に済ますようでは、素人ないし怠惰な校正者と言われても仕方ありません。


 続いて、書店のさまざなま工夫について。


『本棚探偵の回想』(喜国雅彦著・双葉文庫)より。

本棚探偵の回想 (双葉文庫)

本棚探偵の回想 (双葉文庫)

(喜国さんが、某ブッ●オフなどの新古書店におされて「新刊が売れない」ことに悩んでいる日本の出版業界を救うために「1日で5万円分の新刊本を買う」という企画を実行したときの話です)

 ここまで税込み38207円。あと1万円ちょっと。
 連れ合いを車で拾って事情を説明する。自分の買いたい本はみんな買ってしまった。お願いだから君の欲しい本を今日中に1万円分買っておくれ。
 やはり本好きの彼女がこの申し出を断るワケがない。少し離れた場所にある郊外型チェーン店に車を向ける。チェーン店の場合、本部から言われるまま、何も考えずに本を並べる店が少なくないのだが、この店には独自のアイデアがある。
 例えばコミックス。立ち読み防止にビニールパックをしてある店は多いのだが、ここは1冊は中が見えるようになっている。それだけならば普通。この店のユニークなのは、パックしてあるコミックスの表紙すべてに発売日が明記してあること。何気ないけれど、この効果は大きいと思う。近頃めっきり記憶力が落ちて、自分がどの本を買って、かの本を買ってないかさっぱり覚えていない僕が、本を買うときに頼りにしているのが奥付の発売日。「おっと、この作者の新刊がもう出たのか。早速買わねば。いや、表紙に見覚えがあるぞ。もう買ってたかな」と内容をパラパラしたって判るはずがない。だって読んでないもの。そこで奥付を見る。2001年6月発行。なんだ新刊じゃないじゃん。なら買ってるわ。2002年2月発行。あ、出たばっかだ。んじゃ買ってない。
 長編コミックスの表紙はどれも似ている。本来なら買ってくれるべき人が、中身が見られないせいで「もう買ったかも」と、スルーしている場合は多いと思う。そしてコミックスの場合、買うことを習慣にさせるのが商売の秘訣だったりするので、一度スルーしたまま読者でなくなる可能性は低くないのだ。逆に、同じ本を買って怒ってる人もいるだろう。腹を立てて「二度と買うかい!」なんてことになってる場合だってあると思うのだ。


最後に、もうひとつ『書店繁盛記』より。

 そうそう、池袋店の開店準備にはこんなことがあった。当時は芸術書を担当していた、と再三書いた。書店のレイアウトは入口を決めるところから始まる。少なくとも私はそうしている。お客さんの来店導線を想定してレイアウトを決めるのだ。芸術書は最上階の9階にあった。エスカレーターを上がってすぐの棚や平台に新刊を並べる。そのフロア全体の新刊を一箇所に集中させるとしたらここだ。お客さんはここを見ると、そのフロアの扱い書目がざっと分かるはずだ。ここをフロントに、美術書から始めて、工芸書、写真、映画、演劇、芸能、などという順番に並べていった記憶がある。ジャンルの取り合わせは文芸書のほうがもっとわかりやすいかもしれない。私は、入口から新刊台→日本現代文学→時代・戦記→日本ミステリー・社会・経済小説→海外ミステリー→海外文学、こんな流れで小説ジャンルを作る。売りたい、話題になる確率が高いジャンルを、イチゲンさんがさっと見てさっと買ってくれるジャンルを、前に出す。お客さんがじっくり探してくれる、専門性が高いジャンルは後方になる。肝心なことは、隣接するジャンルをなるべく同じ客層にすること。

 この本には、「書店全体および、各フロア、各書棚のレイアウト」のノウハウなども書かれており、客としてはなんとなく眺めているだけの「並び」に、これだけの意図があったのかと感心してしまいます。まあ、こういうのを真似できるような規模の書店というのはそんなにないのかもしれませんが。
 そして、「ベストセラー」だけが書店に必要な本ではないのだ、ということもよくわかります。


あらかじめ断っておきますが、僕は「電子書籍には大きな可能性があるし、すごく面白いジャンルだ」と考えているのです。


「インターネット文学の可能性について」(琥珀色の戯言)


京極さんのインタビューにあるように「読者にあわせて内容が変わる小説」なんていうのも面白いし、村上龍さんみたいに、音楽や動画を利用して、インタラクティブ性を高めることもできます。
あるいは、ある本を読んだ人たちが、面白かったところに線を引いたのを共有して、「ああ、みんなはここが良いと思ったんだな」と「他人と一緒に読む」というやりかたもあります。


ただ、「電子書籍化=紙の本の効率化」という発想は、本を読む人たちを、必ずしも幸せにしないはずです。
小説やマンガ、ドキュメンタリーなどの「コンテンツ」が本になって、読者の手もとに届くまでには、本当にたくさんのプロフェッショナルたちが関わっています。
もちろん、自前でプロダクションを抱え、校正や資料チェックまで行っている作家もいますが、それはごく一握りだけです。


「本が安くなればいいなあ」と僕も思います。
でも、ちゃんとしたものをつくるには、それなりのコストは必要です。
食品や工業製品はもちろんのことですが、「書籍」にも、それはあてはまるでしょう。


おそらく、電子書籍がどんなに普及しても、「編集者」や「校正者」が必要になります。
フリーとして外注で仕事を受ける、という形もあるかもしれませんが、膨大な資料やノウハウは、ひとりの力で維持していくのは困難です。


「書店」がなくなったら、僕たちは、「電子書籍販売サイト」で自力で検索するか、そこのランキングを参考に、膨大な本の山から欲しい本を選ばなくてはなりません。
ネットの書評サイトは参考にはなるでしょうが、逆にいえば、書評家が紹介しないような本は、選択肢すら入らなくなる」可能性もあります。


僕は「電子書籍なんか、要らない」とは思っていません。
むしろ、「いちばん良い電子書籍をつくれるのは、いまの書籍についてのノウハウを持っている出版社のはずだ」と考えています。
そして、電子書籍と紙の本は、少なくともしばらくの間、今後10年くらいは、共存共栄が可能だと思うのです。
出版社や取次や書店を「不当な利益を得ている存在」として責めるのは、いまのネットにはびこる「出る杭を打って、みんな地面にめり込もう主義」でしかありません。


僕が望んでいるのは、「面白い本がたくさん出て、それを多くの人が楽しめる世の中が続くこと」ただそれだけです。
「本が好きな人」は、たぶんみんなそうだと思う。


既得権益」をずっと守ろうとされても困るし、それは現実的にも無理でしょう。
でも、これまでに築いたノウハウを活かして、時代に適応していくことは十分可能だと思うし、いままで愛情を持って本に関わってきた人たちが「パソコンに詳しくない」という理由だけで排除されていくのは、あまりにも悲しい。


僕は、いくら安くても、つまらない自費出版本が溢れかえっているような世界はイヤです。


CDは、iPodの普及で、売れなくなりましたよね。
しかしながら、「レンタルで借りてきて、iPodに入れればいい」この時代でも、CDは、それなりには売れているのです。
たぶん、いまの時代CDを買っている人は、ものすごくコンピューターに疎い人か、その音楽をつくっているアーティストを応援している人のはず。
もっと安く、「内容」だけを手に入れる手段があるのに、CDという物質や、アーティストの収入になることを求めている人が、まだこんなにいるのです。


ほんと、出版社は「裁断された本を並べるパフォーマンス」なんてやってる場合じゃないですよ。
「出版文化を守る」ために、やるべきことはもっと他にあるはずだし、それを積極的にすすめていけるのは、あなたたちだけなのだから。

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