琥珀色の戯言

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『虚構新聞』とネットリテラシーの限界

参考リンク:橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化(虚構新聞)
虚構新聞』のこの記事とその後のさまざまな反応について、考えたことをつらつらと。


僕はネット歴10年以上で、『虚構新聞』というサイトもよく読んでいたので、これが「ネタ」であることはすぐに理解できました。
「ああ、いつもの『虚構新聞』だねえ、はいはい。そういえば、10年くらい前に大学の後輩が、「自分のホームページをつくる実習」っていうのをやらされたって言っていたなあ。いまの世の中だと、ネットリテラシーとやらを鍛えるために、『twitter実習』(とりあえずアカウントをとって、1週間くらい全員にtwitterをやらせてみる)なんてのもアリなんじゃないかなあ、なんて思いつつ、読み流してしまったんですよね。
まさか、この記事がこんなに話題になるなんて、橋下市長関連の話題は、なんかすごくデリケートなんだなあ、と。


それにしても、「『虚構新聞』って書いてあるだろ」とか「こんなのにだまされるヤツは、ネットリテラシーがない。だまされる側の責任」なんていうのを読むと、正直「なんだかなあ」って思うんですよ。


「赤子怒るな 来た道だ 年寄り笑うな 行く道だ」って慣用句があります。
虚構新聞』にだまされた人たちを笑いものにするのって、ネット初心者だったころの自分を笑いものにするようなものだと僕は思うんですよ。
誰にだって、「初心者」の時代はあります。
このあいだ、ナイツがネタにしていたんだけど、『家政婦のミタ』の視聴率が40%という話に、塙さんのほうが「じゃあ、6割の日本人は観ていなかったんですね」とボケていました。
「なんかそう言われるとたいしたことないみたいだな、オイ」
虚構新聞』は、僕みたいにネットずれした人間からすれば、「当然知っているメジャーサイト」なのですが、ネット利用者全体からすれば、認知度はそんなに高くないはず。
インターネットの利用者には、「メールとgoogleAmazon楽天しか利用しない」なんて人が、少なからずいます。ネットサーフィンを日常的にしている人のほうが、むしろ少ないのではないでしょうか。
そもそも『虚構新聞』の「虚構」という日本語を、パッとみて、=フィクション、と解釈できる人間ばかりではないでしょうし。
もちろん、『虚構新聞』の側も、それがわかっていて、あえて「虚構」なんていう、ちょっと小難しい言葉を使っているわけです。
それは別に「だまそうとしている」わけではなくて、そのくらい敷居をあげておいたほうが、パロディとして面白いという計算の上なのでしょう。


こういう場合、最初に大きく「これは嘘ですからね、信じないでくださいね」って注意してからネタを書いても、あんまりインパクトはありません。
「引っかかる人がある程度いるくらいのフィクション」が、いちばん望ましいはずです。

よく練られた嘘(読者に、そこにある真実だと思わせるような物語)を創り出すことにによって、作家は「真実(実際にそこにあるもの)」にいままでとは違う位置づけをして、新たな角度から光を当てることことができる。

虚構新聞』は村上春樹さんのこの発想で運営されているサイトではないかと、僕は認識しています。読む人たちを騙したいのではなくて。


橋下市長は「公人」ですし、こういう「批評」のネタにされることは、ある意味「有名税」だとは思います。
その一方で、実名で、こんなネタを書かれたことによって、twitterなどで抗議されたりして、橋下さんは、精神的苦痛を受け、時間をロスしてしまいました。
「だまされるほうが悪い」とはいうけれど、「だまされるような嘘」を書いて扇動したほうが、基本的には責任を負うべきでしょう。
橋下さんにとっては、「迷惑」以外の何物でもなかったはずです。
でも、「迷惑だから」という理由で、偉い人への「批判的な言及」がすべて禁止された世界は怖い。


有名な「スターリンジョーク」に、こんなのがあります。

スターリンは馬鹿だ!」と赤の広場で叫んだ男がKGBに逮捕された。
罪状は、「国家機密漏えい罪」。

こんな話が、「ガス抜き」になっていた時代・国もあるのです。


今回の『虚構新聞』の記事は、まさに「グレーゾーン」だと思うんですよ。
「このくらいの『虚構』だという前提の嘘」も書けないようなインターネットはなんだか息苦しいし、このネタは、ある意味「権力者への批判」として機能しているといえなくもありません。
虚構新聞』としては、「これはパロディの手法での『橋下批判』なのだ」と考えているのかもしれません。
その一方で、やっぱり、橋下市長の実名をあげて新聞社のニュース形式で書かれていて、虚構であることがみんなにわかるわけではないというのは、「問題がある」。


僕はこのケースの場合は、「『虚構新聞』を批判する声はもちろんあがってもいい、というか、そうする人がいるのは、自然なことだ」と考えます。
ただし、『虚構新聞』が「これは批評なのだ」というスタンスならば、「自らの責任で」覚悟して、それを貫くべきだと思うのです。
訴訟されるかもしれないけどさ。
世の中って、そういう「せめぎあい」みたいなもので回っているものだから。
やりすぎれば、訴えられるかもしれないし、ギリギリのところでうまく立ち回れば、ネットでの「新しいジャーナリズム」として認知されるかもしれない。


僕の観測範囲では、「虚構新聞にだまされた」ことに直接怒っている人というのは、ほとんどいません。
むしろ、「あんなのにだまされるなんて、お前バカだろ」と第三者に侮辱されたことによって怒り、それを「デマを流した」虚構新聞にぶつけているケースが多いように感じます。


ほんと、ネットばっかりやっている人間って、自分が「情報強者」になっていると思い込みがちですよね。
有名人の訃報を、他人より1時間早く知ることに、何の意味があるのか、よくわかりませんが(これは自省もこめて)。
「いやあ、『虚構新聞』の今回のネタには、引っかかっちゃったなあ、アハハハ」というくらいが、大部分の人の反応で、数日したら、こんな話題があったことすら、みんな忘れているのかもしれませんけど。


僕はネットでさまざまな情報に触れ、メディアに関する本を読めば読むほど、「ネットリテラシーの限界」みたいなものを感じずにはいられないのです。

佐々木俊尚さんが『キュレーションの時代』という新書で、こんなことを書いておられました。

 そもそも私たちは、情報のノイズの海に真っ向から向き合うことはできません。


 1995年にインターネットが社会に普及しはじめたころ、「これからは情報の真贋をみきわめるのが、重要なメディアリテラシーになる」といったことがさかんに言われました。マスメディアが情報を絞っていた時代にくらべれば、情報の量は数百倍か数千倍、ひょっとしたらもっと多くなっているかもしれません。その膨大な情報のノイズの海の中には、正しい情報も間違った情報も混在している。これまでは新聞やテレビが「これが正しい情報ですよ」とある程度はフィルタリングしていたので、まあそれをおおむね信じていれば良かった。もちろん中には誤報とか捏造とかもあるわけですが、しかし情報の正確さの確率からいえば、「正確率99パーセント」ぐらいの世界であって、間違っている情報はほとんどないと信じても大丈夫だったわけです。


 ところがネットにはそういうフィルタリングシステムがないので、自分で情報の真贋をみきわめなければならなくなった。だから「ネット時代には情報の真贋を自分でチェックできるリテラシーを」と言われるようになったわけです。


 正直に告白すれば私も過去にそういうことを雑誌の原稿や書籍などで書いたこともありました。しかしネットの普及から15年が経ってふと気づいてみると、とうていそんな「真贋をみきわめる」能力なんて身についていない。 


 それどころか逆に、そもそもそんなことは不可能だ、ということに気づいたというのが現状です。


 考えてもみてください。


 すでにある一次情報をもとにして何かの論考をしているブログだったら、「その論理展開は変だ」「ロジックが間違っている」という指摘はできます。たとえば「日本で自殺者が増えているのは、大企業が社員を使い捨てしているからだ」とかいうエントリーがあれば、自殺増加の原因についていろんな議論ができるでしょう。でもそういう議論をするためには、書かれている一次情報が事実だという共通の認識が前提として必要になってくる。つまり「自殺者が増えている」という所与の事実を前提としてみんな議論をしているわけです。


 逆に、だれにも検証できないような一次情報が書かれている場合、それってどう判断すればよいのか。たとえば、小沢一郎を起訴に持ち込むために検察のトップと民主党の某幹部が密談していた」とか書かれていた場合、それを検証することなど普通の人間にとってはほぼ100パーセント不可能です。新聞社の敏腕記者だってウラ取りするのはかなり容易ではない。


 だから「真贋をみきわめる」という能力は、そもそもだれにも育まれようがないというのがごくあたりまえの結論だったわけです。


 でも一方で、もしその「検察トップと民主党の某幹部の密談」というのが政治ジャーナリストとして著名な上杉隆さんや田原総一朗さんの署名記事に書かれていたらどうでしょう。「これは本当かもしれない」と多くの人は信頼に足る記事だ、と捉えるのではないでしょうか。


 なぜかといえば簡単なことで、過去に上杉さんや田原さんが書いてきた記事が信頼に足ることが多かったからです。


 つまり「事実の真贋をみきわめること」は難しいけれども、それにくらべれば「人の信頼をみきわめること」の方ははるかに容易であるということなのです。

 まあ、上杉さんに関しては、最近はちょっと……というのもあり、それはそれで、ネットリテラシーってのはやっぱり難しいな、と。
 まずは「まず疑ってかかること」、そして、「発信者が誰であるかを確認すること」は最低限なのだと思います。
大新聞も誤報を流す時代ではあるのですが……


 「自分は絶対にだまされない」っていう人ほど、「わかってない」「この時代についていけない」ような気がするのです。
 だまされてみないとわからないことも、世の中にはあるのだし。
 ずっと無菌状態だと、かえって免疫力が低下してしまうこともある。
 「小中学生にtwitter義務化」したほうが良いかもしれませんよ、「虚構」じゃなくて。



キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

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