琥珀色の戯言

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21世紀の落語入門 ☆☆☆☆

21世紀の落語入門 (幻冬舎新書)

21世紀の落語入門 (幻冬舎新書)

内容紹介
ファン歴三十数年の著者が、業界のしがらみゼロの客目線で楽しみ方を指南。


名人・立川談志亡き今、これから落語を聴こうとする者が、失敗せずに楽しむコツは? ファン歴三十数年の著者が、業界のしがらみゼロの「客目線」で親しみ方を大胆指南。「聴く前に、興津要編の作品集『古典落語』を読むと理解倍増」「寄席へ行くより名人のCD」「初心者は志ん朝から聴け」「志ん生は皆が褒めるが江戸弁がキツくて分かりづらい」……定説に時に突っ込みながら、うまい噺家、聴き方のツボ、演目の背景・歴史を一挙紹介。落語ツウも開眼多数の新感覚の入門書。


僕は最近興味を持って、ちょっと落語を聞いているのですが、「話芸」のすごさはわかるんだけど、面白いかと言われると……微妙だなあ……と感じていました。
世間の「落語好き」の人たちはけっこう厳しくて、「とにかく寄席に行って、ナマで聴け」とか「この名人のこの噺がわからないやつはダメだ」みたいなのを読むたびに、地方在住で、いまひとつ面白さがわからない僕は、なんだかもう打席に立つことすら許されないような気分になっていたんですよね。
そういう点に関して、著者は、明確で、地方在住者にも優しい助言をしてくれています。

 では、私の言いたいことは何かといえば、落語って聴いたことがない、という人は、寄席に行くより、まず昔の名人の録音を聴くところから始めよ、ということである。

「寄席へ行け、そうでなければ落語を聴いたとはいえない」というのも、「落語は古い名人のものを録音で聴けばいい、今の落語など聴いてもしょうがない」というのも、いずれも極論だが、私はそのどちらもとらない。古い名人の録音も聴き、もし機会があったら今の落語家のものも聴き、可能なら生で聴いてもよし、というのが私の立場である。

ただし、率直に言うと、この『落語入門』って、僕レベルの「書店で見かけた名人の格安DVDをちょっと聞いてみたくらいの初心者」には、いまひとつピンとこないのです。
著者の「個人的な趣味」があまりに前面に出過ぎていて、「この人はそう考えているのだなあ」とは思うのだけれど、それを鵜呑みにして良いのかどうか、悩ましくなってきます。
というか、この新書自体、「落語入門」というよりは、著者の「話芸」として読んだほうが良いのではないか、という気がするんですよね。
「落語好き」というのが、いまの世の中では、なんとなく「自分は違いがわかる人間であるという符牒」みたいになっているなあ、という感じていた僕には、けっこう痛快なところもあったのですけど。


「初めて落語を聴くという人がいたら、志ん朝のほうだろう」
「いかなる落語家の口演を聴くより、初心者は、興津要の『古典落語』を読むのがいい、と私は思っている」という、かなり具体的なアドバイスもされています。
ちなみにこのあと、鳥越信さんという児童文学の研究者が「外国文学の児童向け抄訳は絶対に認めない」と主張したことについての話が書かれているのですが、僕はこの話が面白かったのです。


正直、この新書、落語関係の話より、著者の知識が溢れ出してしまっているような「脱線部分」がすごく魅力的。

 余談だが、トロイの遺跡を発掘したシュリーマンというのは、自伝『古代への情熱』に書いてあるような、子供の頃からトロイに関心があった、というのは嘘で、商売で成功した45歳の頃、旅行の途中に立ち寄ったトルコで、トロイの遺跡はこのあたりらしい、という話を聞き、富を投じてそれを発掘させた、というのが真相である。その後で博士号をとるのだが、古代ギリシア語も満足にできず、本を出すと金をばらまいて書評させたが、一人だけ、金を出していないのに書評した者がいて、シュリーマンはその人物に小切手を送ったら返送されてきたという(トレイル『シュリーマン 黄金と偽りのトロイ』青木書店、1999)

この話、全く知りませんでした。
「歴史ロマン派」にとっては、寂しくなるエピソードではあります。


この本を読んでいて非常に興味深かったのは、「いまの世の中で、何かを趣味とするとき、『それを会場で直接観る、あるいは聴く』ということに、どのくらいの意味があるのだろうか?ということでした。
著者は、「野球好きなら球場へ行け」というのは暴論だし、「絵画好きなら、世界の美術館で本物を鑑賞しろ」なんて金持ちの妄言だと仰っておられます。
「テレビ観戦しかしない人は、野球ファンじゃないのか?」というのは、僕自身もいろいろと思うところがあるんですよね。
野球、サッカー、プロレスくらいは、生で観戦したことがあるのですが、僕にとっては、とくにプロレスやサッカーは「テレビで観たほうが面白い」ものでした。
サッカーなんて、会場で観るというよりは、みんなで一体化して応援することが「楽しい」かどうかで、スタジアムで「試合そのものを観る」ということには、あまりメリットを感じませんでしたし。
いや、全体を俯瞰するとか、攻めているときにキーパーは何をしているのか?とか、そういうのを確認する意味では、一度くらいは観て損はしないとは思うのですけど。
「コンサートに行く」ことと「CDを聴く」のは、同じ「音楽体験」なのか、それとも別物なのか?
別物だとすると、それは優劣があるものなのか、それとも、「異なる体験をした」と考えるべきなのか?


先日、浅草に行ったときに、落語を少しだけナマで聴きました。
僕はけっこう面白かったし、また聴きたいおのだと思っています。
映画や演劇と同じで、「それに集中するための空間にいる」というのは、けっこう大事なはず。
その一方で、落語は、「聞くことだけで楽しめる、数少ない娯楽」でもあるのです。
漫才って、少なくともいまM-1とかでやっている漫才の多くは、ラジオで音だけ聞くと、ちょっと伝わりにくいような気がします。
僕も「あまりに過剰な現場主義」は意味ないとは思うのですけどね。

 小説でも、雑誌や新聞で騒がれているような現代の作品ばかり読んでいるような人には、古典的名作も読むよう勧めたいし、落語にしても、存命の落語家を生で聴いてばかりいる人には、志ん生文楽圓生といった過去の名人のものも聴くよう勧めたい。もちろん、今生きている若い落語家のファンになるのはかまわない。だが、本当に落語が好きなら、過去の名人のものは聴くべきである。逆に、過去の名人のものは聴くけれど、今の落語は聴く気にならないという人がいても、それはしょうがないと思う。小説にしたって、いまどれほど、過去の名作に匹敵するものが書かれているか、疑わしいのだから。

この著者らしい、率直な意見と語り口。
「あなたも小説家なのに、それで良いんですか?」と問いかけたくなるのですが、著者は「自分はそんなこと承知の上でわかって小説を書いている」と仰っておられます。
結局のところ、この新書、「落語入門」というよりは、「小谷野敦入門」なのではないかなあ。

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