琥珀色の戯言

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第148回芥川賞選評(抄録)


文藝春秋 2013年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2013年 03月号 [雑誌]

今月号の「文藝春秋」には、受賞作となった黒田夏子さんの『abさんご』と芥川賞の選評が掲載されています。
恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

高樹のぶ子
黒田夏子abさんご』について)
 最初は行きつ戻りつで時間ばかりを取られて苛立つだろうが、おそらく後半では最初の数倍のスピードで読み進む事が出来るだろう。そのとき読者の中に何が起きているのか。大和言葉と一体になることのできる体内リズム、ひらがなを自分の感性と呼吸に沿って自由に意味づける変換力、いや想像力である。つまりは日本語ドリルでもあるのだ。

小川洋子
 母国語以外の不慣れな言語で小説を書く作家が、図らずもその言語に隠された秘密をあぶり出す、ということはしばしば起こり得る。しかし、身についた言葉を一旦忘れて、あるいは忘れた振りをして書く、とは何と不思議な試みだろうか。たとえ語られる意味は平凡でも、言葉の連なり方や音の響きだけで小説は成り立ってしまうと、『abさんご』は証明している。この小説を読むことは、私にとって死者の語りに身を委ねるのに等しかった。

宮本輝
(『abさんご』について)
 受賞作となった黒田夏子さんの「abさんご」を読み始めて、私はすぐに投げ出したくなった。横書きで、通常は漢字を使うところでも意図的にひらがなにしてしまって、そのうえに、これでもかというほどの自己陶酔を感じさせる表現を執拗なまでに繰り返す。
 じつに読みにくく、読了したときは目と頭が疲れてしまった。
 二度も読む気になれないにもかかわらず、なにかしら心に残るものがあって、結局、私は三回読み返した。

山田詠美
関東平野」。今、放射能を重要なファクターに選んで展開させた小説を読む時、こんなことを思う。これを、この間の震災前に読んだら、どのように感じただろうか、と。大きく印象が異なるであろうことを踏まえた上で、それでも素晴らしいと言えるものが、どれだけあるだろう。自己表現(これ、小説においてはけなし用語ね)のために、圧倒的な現実を利用してはいけないよ。むしろ、小説の方から奉仕すべきね。


(中略)


(『abさんご』について)
 正直、私には、ぴんと来ない作品で、何かジャンル違いのような印象は否めなかったし、漂うひとりうっとり感も気になった。選考の途中、前衛という言葉が出たが、その言葉を使うなら、私には昔の前衛に思える。洗練という言葉も出たが、私には、むしろ「トッポい」感じ。この言葉、生まれて初めて使ったが。

川上弘美
abさんご」。難解な現代詩のようなものなのかしら。と、どきどきしながら読んでいったのですが、明晰でこなれた文章で、気持ちの明るむ思いでした。ただ、この家庭に入りこんでくるいやらしい女に対して、あまりに元々の家の住み手が無批判すぎません?

奥泉光
 黒田氏の工夫はただ一つ、小説を読者にゆっくりした速度で読ませることにある。小説を読むとは、インクのしみにすぎない活字から「世界」を作る作業なのであって、だから元来時間がかかるものなのだ。しかし、自分を含め多くの読者は忙しいので、なかなか時間をかけては読めない。結果、日常とは異なる特別な時間が流れ出す前に、先へ先へと活字を追ってしまい、宝を掴み損ねる。読者と急がせない工夫。この点において本作品は徹底した洗練を見せる。

堀江敏幸
 aでもbでもない場所を求めていく謎めいたタイトルとあいまって、質のよい磨りガラス越しに世界を見ている印象だ。ひとつの名詞で説明が足りるところを、もってまわった言い方で一般的な言葉遣いを回避しようとする文体上の屈折には、蚊帳の内と外を見極める洗練の力と同等のあやうさがある。しかし、このあやうさがなかったら、つまり書法・書記法への意識がなかったら、何十年かの時間を凝縮してなお瑞々しい声は聞こえてこなかっただろう。

村上龍
 わたしは受賞作の「abさんご」を推さなかった。ただし、作品の質が低いという理由ではない。これほど高度に洗練された作品が、はたして新人文学賞にふさわしいのだろうかという違和感のためである。新人作家にとって、洗練は敵だと、個人的にそう思っている。


(中略)


 だが、矛盾しているようだが、この作品が受賞に決まったとき、わたしは反対したにもかかわらず、うれしかった。それは、この作品が、おそらく長い時間を要して書かれたものだと理解していたからだ。何度も書き直され、文体の選択、文章の省略と繰り返し、漢字とひらがなの使い分けなどに細心の注意が払われ、それが高度な洗練を生んでいる。また、著者が長年校正の仕事に携わっていたことに対しても、わたしは好感とリスペクトを持った。校正者がいなければ、作家は本を世に出せない。

島田雅彦
(『美味しいシャワーヘッド』について)
 いつものどうでもよいことに拘泥した饒舌な屁理屈がやや影を潜め、物語的明快さが前面に出たことで、パワーが落ちてしまったのは惜しい。人は年を重ねると、ついいい人になってしまいたくなる誘惑に駆られるし、また説教癖が身に着いたりしてしまう。しかし、舞城には「丸くなる」ことを徹底的に拒んで欲しい、と注文を付けるのは読者の身勝手であろうか?


 人は、失ってしまったものを、つい求めてしまう。
 今回の受賞作『abさんご』は、僕にとっては「面白くない小説」だったのですが、選考委員たちは、軒並み高評価でした。
 ああ、石原慎太郎さんがいてくれたら、「こんなの読みにくいだけじゃねえか!」と一刀両断にしてくれていたのではないか、などと、想像してしまうのです。
 ああ、でも黒田さん75歳だからなあ、「暴走老人」としては、それだけであんまり酷いことは言わないかも。
 正直、宮本輝さんが「私はすぐに投げ出したくなった」と書いているのを読んで、僕はちょっとホッとしたんですけどね。


 まあでも、いまの選考委員たちは、自分の作品世界だけではなく、「世界文学の潮流」みたいなものにも比較的明るい人が多いし、円城塔さんに授賞したように(そのときはまだ石原さんも選考委員だったわけですが)、「ちょっと難しいもの、前衛的なものも『芥川賞だからこそ』評価していこう」という気概があるように思われます。
 もしかしたら、黒田さんの「一つの作品を10年もかけて推敲し、言葉を磨いていく」というプロセスに、流行作家としては羨ましく感じているところもあるかな、なんて想像もしました。


 『abさんご』って、「芥川賞受賞作だからこそ、難しい作品を多くの人が手にとった」という面も確実にあるわけです。
 村上龍さんは「これを新人賞の対象として良いのか?」と疑問を持たれていたそうなのですが、いまの世の中の基準からすれば、「新人」と「ベテラン」を分けるものは、「キャリアの長さ」よりも「それを職業として、収入を得られた期間の有無」なのかな、などとも考えさせられましたし。
(厳密には、芥川賞の選考対象作品というのは「『文藝』や『群像』など、特定の文芸誌に掲載された小説」であって、作家のキャリアとかをみているわけではないのですけど)


 今回の選評で、とくに印象的だったのは、山田詠美さんの

 自己表現(これ、小説においてはけなし用語ね)のために、圧倒的な現実を利用してはいけないよ。むしろ、小説の方から奉仕すべきね。

 という言葉でした。
 実際、「震災後文学」みたいなものは、少なからず出てきていますし、これからまた増えていくはずです。
 やっぱり、この時代に生きている人間は、「それ」を避けては通れないとも思うし。
 でも、だからこそ「小説が現実を利用するな」というのは、重い言葉だな、と感じるのです。
 

 ……とか言いながら、半年後には「震災文学」が受賞しているが芥川賞、だったりするわけですけど。


 あと、舞城さんはちょっと候補にされるのが可哀想になってきました。
 いつもは「わけわからん」と言われ、ちょっと抑えて書くと「丸くなった」とたしなめられる。
 いったいどうすればいいのか……と。


 話題も選評も『abさんご』が主役だった今回の芥川賞ですが、これと他の「小説」を比較することの是非も含めて、なかなか興味深い回だったと思います。

 でもなあ、正直、こういうときこそ、石原慎太郎カムバーーック!と叫びたくもなりますね。「選評ウォッチャー」としては。



 受賞作『abさんご』の感想はこちら。

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