琥珀色の戯言

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【読書感想】津波の墓標 ☆☆☆☆☆


津波の墓標

津波の墓標

内容紹介
【「序」より】
ある時は壊れた家の中で見つけた遺体に毛布をかけて通り過ぎ、ある時は遺体安置所から運び出される棺に手を合わせ、ある時は泣き伏す遺族の隣で言葉もなく立ちすくんだ。
これから私が書く無数の物語は、一つひとつがまったく違う意味と重みを持つものになるだろう。私はそれらを無理に一つにまとめて意味づけをしてしまうより、ありのままに書き綴つづることで複雑さと重さと生々しさをそのままつたえたいと思う。


石井光太さんが震災直後から現地で取材した、「被災地で実際に起こっていたこと」。
これを読んでいると、被災地から遠く離れた場所で、「絆」とか「がんばろう、ニッポン!」なんて言って感傷的になっていた自分が、なんだかとても虚しくなってきます。
当たり前のことなんですけど、「きれいごと」ばっかりじゃないんですよね。
報道では「こんな大きな災害に遭っても、理性と感謝の心を失わない日本人素晴らしい!」なんて話が多くて、それはたしかに「事実」だったと思うのです。
でも、それだけじゃない。


「集団によるブランド物などの略奪」もみられたし、「レイプの噂」もあったそうです。
(略奪については著者も現場を見て書いていますが、レイプについては、あくまでも「噂」として書かかれています)
 著者は、被災者とボランティアの間に起こった、さまざまなトラブルについても書いています。
 被災地に支援にやってきたはずなのに、みんなで肩を組んで笑顔で記念撮影をし、被災者を激怒させたグループもいたそうです。


 でも、そういうトラブルは、ボランティア側に問題がある事例ばかりでは、ありませんでした。

 これとは反対に、被災者がボランティアに来た人々に対して礼儀を欠くということもあった。避難所となっていた学校を訪れた際、門の脇で白いジャンパーを着た二十代の女性が友人の胸に抱きついてないていたことがあった。よく見ると、二人はボランティア団体であることを示す証明書を首からぶら下げている。おそらく仕事を休み、被災者の支援のために駆けつけて働いているのだろう。
 私はなぜ彼女が激しく嗚咽しているのか気になり、タイミングを見計らって理由を訊いた。隣にいた友人の女性が代わりに答えた。
「避難所で暮らす男性に何度も性的な嫌がらせを受けたんです。働き方が悪いと難癖をつけられては体を触ってきたり、みんなの前で突然いやらしいことを言ってからかってきたり……」
 港に暮らす漁師を都会から来たボランティアの若い女性の間に、考え方の違いがあるのは当然だ。だが、話を聞く限り、被災者の行動にはいき過ぎたところがあった。
「今朝も、この子はある被災者から『被災者の気持ちを無視している』なんてケチをつけられて三時間もしつこく説教を受けたんです。その上に、後でひと気のないところに呼び出されていきなり抱きつかれた。それで参っちゃったんです」
 泣いていた女性が嗚咽する声をさらに大きくした。もしかしたら私に言えないようなこともされたのかもしれない。
「そのことは避難所の管理をしている人に言ったんですか」と私は訊いた。
「もちろんです。そしたら、『避難所の人たちは家を失ってつらい思いをしているから仕方ない』って言われて片づけられました。他の被災者に相談しても、あっちは地元の結束があるから助けようとはしてくれません」
「一緒にボランティアに来ている男性がいるでしょ。そういう人に相談しましたか」
「しましたけど、反応は同じです。『今、被災者を非難しちゃいけない。彼らは僕たち以上に追い詰められているんだから』って言うんです。誰もかれも今は被災者を守るべきだっていう姿勢なんです。悪いことをする人がいてもそれを止めようともしない……こんなのあんまりですよ。この子だって被災者と同じ人間なんですからどっちがどっちなんてことはないはずです」
 マスメディアは震災以来、被災者を悲劇の主人公として扱ってきた。それはそれで間違いではない。だが、それがあまりに過剰になりすぎたため、彼らは何をしても許されるという事態が一部で起きているのではないか。

 著者は「一部で」と書いていますし、僕もそうだと思いたい。
 こういう話が大きく報じられれば、ボランティアに行く人は「少なくとも女性は」減るはずです。
 ほとんどのマスコミも、リアルタイムでは、こういう話は伝えてくれませんでした。
 これは、けっしてこの女性だけの事例ではないはずなのに。
 いくら被災して傷ついていても、人間として、やってはいけないことはあるはず。
 いや、僕だって同じ立場になったら、ヤケクソになって「そういうこと」をやってしまうかもしれません。絶対に自分はやらない、という自信は持てない。
 でも、だからこそ、こういうセクハラが「かわいそうだから」という理由で、放置されてはならないと思うのです。
 それは、加害者の尊厳のためでもあります。
 同じようなことが、介護の現場でも起こっていて、「相手は『かわいそうな』お年寄りだから」という理由で問題にされず、疲弊した介護士たちが仕事を辞めていっています。
 「被災者を責めるな」というけれど、「被災者だから、何をしてもいい」というわけじゃない。


 この本のなかでは、同じ「被災地」でも、被害の大きかった地域とそうでなかった地域の「温度差」がかなりあることや、被災者たちの複雑な感情も誠実に書かれています。

 自衛官たちは震災の直後から被災地に入り、住民たちの救助や食料の配給に取り組んでいた。誰もやりたがらない遺体の捜索や運搬といった仕事を担ったのも彼らだ。地元の若い女の子たちがそんな彼らに親しみを抱いたり、恋心を芽生えさせたりするのは自然の成り行きだろう。一部の女の子たちは、自衛官をアイドルのように見ていた。
「すみません。サインください。どこの基地からいらっしゃったんですか」
「よければ私と一緒に写真を撮ってください」
 すれ違いざま、そんな会話が耳に入ってくることもあった。
 自衛官にしてみれば、決して嫌な気分ではなかっただろう。普段は男ばかりの職場で肉体を鍛えるか訓練をするかの日々だ。若い女の子に取りかこまれ、もてはやされれば、メールアドレスの交換くらいしたくなるはずだ。被災者の話によれば、そんなふうにしてはじまった恋もあったそうだ。
 ただ、地元の若い男性にしてみれば、地元の女性がよそからやってきた男になびくのは不快だった。石巻市の避難所で、二十代半ばの青年に震災当時の話を聞いていた時、隣で彼と同級生だった女の子が友達と一緒に携帯で撮ったハンサムな自衛官の写真を見せ合っていたことがあった。青年はそれに気づくとあからさまにつまらなそうな顔をして、わざと聞こえよがしにこう言った。
自衛隊の連中なんて来なきゃいいのに。あいつら、自分たちだけ隠れて飯を食ったり、それを気に入った子にだけ分けたりしているんだぜ。地元の子にセクハラしてるって噂まである」
「セクハラ?」
「ああ……噂だけどな。でも、あいつらは普段から男だけで過ごしているからすごいエロいらしい。はっきり言って迷惑だし、彼らがいる限り地元に人間に仕事は回ってこないんだから、帰った方がいいんだよ」
 自衛官に対する嫉妬心が生んだ言葉にちがいなかった。

 ああ、この人も、震災に遭わなければ、こんな言葉を吐かなくても済んだはずなのに……
 震災は「誰のせいでもない」けれど、さまざまな感情の歪みを、多くの人にもたらしました。
 現場で体を張って活動している自衛官たちは、たしかにカッコいいだろうし、彼らに憧れることで、つらい現実を忘れたいという女の子たちの気持ちもわかる。遺体捜索などは、直接の被害者ではない自衛官にとってもキツイ仕事だろうし、若い女の子に感謝されたり、「写真撮ってください」と言われたら、無下にできない自衛官の気持ちもわかる。
 そして、その自衛官たちに対して、「多くのものを失ったあげく、地元の女の子たちも『白馬の王子』のほうばかりを向いてしまっている現実」への苛立ちをぶつけてしまう青年の気持ちもわかる。
 本当に、「誰が悪いわけでもない」。
 けれど、こういう「感情のもつれ」みたいなものは、被災した人たちのあいだで、ずっと続いていくのだろうな、という気がします。
 被災した人たちは、「テレビの前で哀れんでいる人たち」を恨まない。
 だって、姿がわからないから。
 そのかわり、「自分より被害が少なかった近所の人」や「身内を失わずに済んだ人」、そして、「献身的に働いている自衛官たち」と自分の立場を比較して、嫉妬や苛立ちをぶつけてしまうのです。
 誰のせいでもない自然災害なのに、みんな一生懸命やっているのに、人と人のあいだには、大きな壁ができてしまう。
 震災さえなければ、おそらく顕在化することはなかったはずの壁が。


 マスメディアの報道について、著者の旧知のテレビディレクターは、こんな話をしていたそうです。

「石井さん、今のテレビの報道っておかしいと思いませんか。僕、自分がいる業界にかなり失望しているんです。津波のあった直後は、会社からもどんどん惨状をつたえろと指示を受けていましたし、僕もそれをすることでここで起きている現実を日本中に知らせたいと思っていました。けど、現実にはそんなことは一切できなかったんです」
「どういうこと? 局はちゃんと現実を報道するつもりだったんでしょ」
「その姿勢は三日ぐらいしかつづかなかったんですよ。突然、会社からの指示が変わって、『視聴者は悲惨な話にはうんざりしているから、日本全体を勇気づけるような話を持ってこい。たとえば避難所でペットを飼っている老人の話だとか、子供が生まれたという話が求められているんだ』と言われたんです。目の前で被災者が生活に困っていたり、遺体にすがって泣いていたりしているのに、それを無視して無意味に明るいニュースばかりつくらなければならなくなったんです。目の前の現実と報道の間に溝が生まれ、瞬く間に広がっていく感じでした」
 テレビ局側は広告を取りもどすために復興を前面に押し出さなければならないし、下手な映像を流して視聴者からの反感を受けるのは極力避けねばならない。ニュースによって厳しい現実をつきつけるより、視聴者が見ていて安心するような映像を流そうとするのは当然の流れなのだろう。
 私は段ボールの中からペットボトルの水をもらって言った。
「そういえば、今日女川町でまったく逆のことがあった。カメラマンが遺体のブルーシートを剥がしてまで顔を撮影していいたんだ。会社側がそれを命じたそうだ」
「たまにそういう指示もありますよ。ただそういうのを命じられるのは局の人間というより、下請けのフリーのカメラマンが多いんじゃないですかね。どうせ撮ったってつかわないのに、上の気まぐれで『とりあえず撮ってこい』って」

 この本のなかには、その「ブルーシートを剥がしたカメラマン」と著者とのやりとりも収められています。
 そのカメラマンは「報道のためだから、これは必要な行為なんだ」と確信したり、開き直ったりしているわけではなく、「上からの命令でしかたなくやっているんだ、こっちも食べていくためにはしょうがないんだ」と弁明していたそうです。
 「とりあえずそういう写真も撮っておいてよ、いつか使うかもしれないからさ!」って、現場の惨状をみているわけでもない「偉い人」が、その「ひどいカメラマン」に命じているのです。
 これって、カメラマンと、偉い人のどちらが、本当に「ひどい」のだろうか?
 少なくとも、マスメディアの偉い人たちは、被災地や光景や遺体の姿を夢にみることはないでしょうね……
 でもね、たしかに僕自身もあのとき、絶望的なニュースばかりで、「もう見たくないよ」と感じていたんですよ。
 だから、「マスコミだけが悪い」と言い切る自信もないのです。


 この本を読んでいると「被災すること」とは、具体的にどうなってしまうことなのか?が、少しだけわかるような気がします。
 あくまでも「少しだけ」なのですが、マスメディアで伝えられる「大きな悲劇」と「心温まるエピソード」の間に、多くの「命を奪われはしなかった被災者」たちがいるのです。
 著者は、取材を終えたあと、母親と十代の娘が二人で歩いているのを見かけ、自宅まで送っていくことにしたそうです。
 この十代の娘さんは、なかなか車に乗りたがらなかったそうなのですが……

 私は自宅までの案内を母親に頼み、アクセルを踏んで車を発進させた。ミラー越しに見ると二人の顔には明らかに疲労の色が浮かんでいた。
 ハンドルを握りしめながら前を見ていると、急に車の中が寒くなっているのに気がついた。いつの間にか後部座席にすわっていた娘が車の窓を開けていたのだ。雪が吹き込んでいたが、彼女は身を縮めているだけで閉めようとしない。頬や鼻の頭が寒さで赤らんでいる。
 私は窓を閉めてくれと言おうとしてミラー越しに後部座席を見たところ、彼女の服が汚れており、車内にすえた臭いが漂っていることに気がついた。もしかしたら彼女は自分の体臭のことを気にして窓を開けたのではないか。震災から十日、一度も体を洗うこともできず、服は汚れきり、否応なしに異臭を発していた。彼女はそれを気にして、窓を開けて少しでも臭いを外に逃がそうとしたのかもしれない。
 私は窓を閉めてほしいとは言い出せなかった。母親も娘の気持ちを察したのか申し訳なさそうに黙っている。結局私は言葉を呑み込み、凍てつく風と雪が吹き込む中、目的地までの道のりを進んだ。


 「被災する」ということ、「日常を失う」というのは、こういうことなのかな、と僕は読みながら考えていました。
 もちろん、命を落とすよりは、「生きていてよかった」。
 でも、「生きている」=「よかった」で済まされるものではない。
 津波の被害や原発事故で日常を失った人たちが受けた、こういう「心の傷」は、そう簡単に癒えることはないでしょう。
 たしかに「原発事故で直接死んだ人(関係者以外)はいない」のかもしれませんが、大勢の人が被災地で、あるいは避難所で、こういう「いままでの人間とてのプライドを見失うような体験」をしたことに対して、もっとちゃんと目を向けるべきだと僕も思います。
 それができないのなら、政治家は何のために避難所を「視察」になど行ったのだろうか。
 物見遊山?人気取り?などと言われても、仕方が無い。


 僕がここであれこれ言うより、とにかく読んでみていただきたいルポルタージュです。
 やりきれない気持ちばかりが残る本ではあるのだけれども、これが「現実」だと思うから。

 

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