琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】ゼロ ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
誰もが最初は「ゼロ」からスタートする。
失敗しても、またゼロに戻るだけだ。
決してマイナスにはならない。
だから、一歩を踏み出すことを恐れず、前へ進もう。


堀江貴文はなぜ、逮捕され、すべてを失っても、希望を捨てないのか?
ふたたび「ゼロ」となって、なにかを演じる必要もなくなった堀江氏がはじめて素直に、ありのままの心で語る、「働くこと」の意味と、そこから生まれる「希望」について。


【本書の主な目次】
第0章 それでも僕は働きたい
第1章 働きなさい、と母は言った──仕事との出会い
第2章 仕事を選び、自分を選ぶ──迷い、そして選択
第3章 カネのために働くのか?──「もらう」から「稼ぐ」へ
第4章 自立の先にあるつながり──孤独と向き合う強さ
第5章 僕が働くほんとうの理由──未来には希望しかない
おわりに


堀江さんが出所してから、はじめての書き下ろし。
どんな内容なんだろう?と思いながら読み始めたのですが、なんだかとてもストレートに自分のことを書かれていて、意外だったのと同時に、すごく心惹かれる本でもありました。
これまでの堀江さんの言動に関して、僕はずっと「身も蓋もない人」だという印象があって、「正論なんだけれど、もっとやり方があるんじゃないのか」と感じていたんですよね。


堀江さんは、「刑務所に入って何かが変わりましたか?」という質問を、出所後何度もされたそうです。
それに対して、「信念も、仕事に対する姿勢も、お金に対する価値観も収監前とまったく同じ」だと宣言したあと、こう付け加えておられます。

 ひとつだけ変わったところを挙げるなら、コミュニケーションに対する考え方だろう。
 かつての僕は、世の中にはびこる不合理なものを嫌う、徹底した合理主義者だった。そして物事をマクロ的に考え、「システム」を変えれば国が変わると思ってきた。起業も、株式分割も、さまざまな起業買収も、あるいは衆院選出馬も、すべてはこの国の「システム」を変えたかったからだ。
 きっとそのせいだろう、僕はひたすら「ファクト(事実)」だけにこだわってきた。
 言葉で説明するよりも、目に見える結果を残すこと。余計な御託は抜きにして、数値化可能な事実を指し示すこと。あいまいな感情の言葉より、端的な論理の言葉で語ること。それこそが、あるべきコミュニケーションの形だと信じ切っていた。
 しかし、理詰めの言葉だけでは納得してもらえないし、あらぬ誤解を生んでしまう。そればかりか、ときには誰かを傷つけることだってある。僕の考えを理解してもらうためには、まず「堀江貴文という人間」を理解し、受け入れてもらわなければならない。言葉を尽くして丁寧に説明しなければならない。その認識が完全に抜け落ち、多くの誤解を招いてきた。これは最大の反省点である。


この本のなかでは、これまであまり積極的に語られることがなかった、堀江さんの半生、とくに幼少期から東大に入学するまでの話や両親との関係などが、かなり丁寧に綴られています。
たぶん、刑務所に入る前の堀江さんだったら、そういう「他人に共感されてしまうような話」をするのは、どんなにギャラをもらっても、拒んでいたのではないでしょうか。
ところが、この本のなかでは、あえてそこに踏み込んで「自分のことを知ってもらおう」とされています。


堀江さんとほぼ同世代であり、同じ時期に九州にいて、そんなに遠くない場所で生きてきた僕にとっては、堀江さんの子どもの頃の話が、あまりにも「どこにでもありそうな話」すぎて驚きました。

 たった一度の家族旅行で立ち寄った飲食店が、インベーダーゲームの喫茶店と、東武線構内の伸びきった立ち食いそば。なんだか、あの東京旅行が堀江家の空気をすべて物語っているような気がする。「食事」であればなんてもいい、「サンシャイン60」に上ればそれでいい、といった雑な感覚。れっきとした家族でありながら、同居人でしかないような、不思議な関係。

 ご両親の堀江さんへの接し方などは「ごく普通の愛情溢れる家庭」だとは言い難いのだけれども、1980年代を子どもとして過ごしていれば、ここに描かれているような「家父長制度の名残りと、新しい個人主義とがせめぎあっているような家庭」って、「理解しやすい」ものなのです。
早慶よりも九大(九州大学)のほうが偉いと思っている九州人のメンタリティ」なんて、「そうそう!」と頷かずにはいられませんでしたし。


九州の地方都市で、サラリーマンの家庭に生まれた「天才児」。
あまりにも普通の家庭から、田舎の子どもたちのなかに、突如生まれた突然変異のような存在だった堀江さんは、子ども時代、自分の存在をずっともてあましていたような気がします。


進学校に入学したあと、マイコンにハマったり、遊びを覚えたりして成績が落ちたこともあったのですが、結果的に東京大学に入学。
東大入学後も、あまり目立った学生ではなかった堀江さんなのですが、プログラミングを活かして「はたらくこと」の楽しさに目覚め、ライブドアを創りあげていくのです。


この本のなかで、僕がいちばん驚いたのは、これまで、堀江さん自身の口からはほとんど語られることがなかった「結婚生活」と「たぶんもう二度とは会えない、自分が父親である事も知らないかもしれない子どものこと」が書かれていたことでした。
僕は、堀江さんのことだから、きっと離婚についても「慰謝料さえキチンと払っていれば、それでいいんだろ。結婚生活が維持できなくなったんだから、しょうがないじゃないか」というふうに「割り切って」いるのかもしれないな、なんて思っていたのです。
でも、そんなことあるはずないよね、やっぱり。


僕はある意味「こういう『プライベートを語ること』も、堀江さんのひとつの自己プロモーション」だと思ってもいるのです。
収監される前の何年間か「すべてはお金で決まるという、拝金主義者『ホリエモン』」を演じてきたのと同じように、収監後は「みんなにも理解できる(であろう)人間味のある、悩めるひとりの人間である堀江貴文」を前面に押し出していこうとしているのではないか、って。
以前が「露悪」であったのなら、いまが「露善」であってもおかしくないし。
でも、この「失ってしまった家族」について、そして、両親について書かれていた言葉には、僕の「猜疑心」もうまく抵抗できなくて、ブンブンと心を揺さぶられました。
堀江さんには、たしかに「冷酷非常な面」もある。
でもそれと同時に、つねに「孤独」を抱え、背水の陣で戦っている。
「そんなふうにしか、生きられない人」も、世の中にはいる。


ネットでは「そんなにガツガツ働かずに、身の程を知って、家族との時間を大切にしようよ」という人がたくさんいて、それに頷く人も、大勢いて。
僕も、どちらかというと、そういう「仕事人生否定派」なのです。
堀江さんみたいな「努力する才能」もないし。
ただ、本当にそれでいいのか?と考え込んでしまうこともあって。
こういうのって、どちらが正しい、とかいうのではなくて、「どちらが自分にあっているか」だけの話なのかもしれませんけどね。
ただ、どちらに向かっても、僕みたいに「悩む人間は悩む」のだよなあ。


堀江さんは「何かを好きになるには、『没頭』することが必要だ」と仰っています。
でも、「面白くないものに、没頭なんて、できないよ」と僕は思う。
それに対して、堀江さんは、こんな答えを用意しているのです。

 じゃあ、どうすれば没頭することができるのか?
 僕の経験から言えるのは、「自分の手でルールをつくること」である。
 受験勉強を例に考えよう。前述の通り、僕は東大の英語対策にあたって、ひたすら英単語をマスターしていく道を選んだ。文法なんかは後回しにして、例文も含めて単語帳一冊を丸々暗記していった。もしもこれが英語教師から「この単語帳を全部暗記しろ」と命令されたものだったら、「冗談じゃねーよ」「そんなので受かるわけねーだろ」と反発していたと思う。
 しかし、自分でつくったルール、自分で立てたプランだったら、納得感を持って取り組むことができるし、やらざるをえない。受動的な「やらされる感じ」ではなく、能動的な「やる勉強」になるのだ。


 僕はこれを読んでいて、ドワンゴ川上量生さんが、著書『ルールを変える思考法』で仰っていたことを思いだしました。

 現実社会で行われている競争の勝者は、「ルールを決めた人間」である確率が高いからです。人間の社会での競争とは、もともとそういうものです。

 「英単語マスター法」なんて、そんなに大きな「ルール」ではないのかもしれません。
 でも、他人がすすめる「ライフハック」に従うだけではなく、自分でそういうルールを考え、決めていこうという姿勢は、堀江さんと川上さんに共通したもののように思われます。
 
 堀江さんがしきりに「起業」をすすめるのも「自分でルールを決められる立場になるため」なのだろうな、と。

 責任が発生しないうちは、ほんとうの意味でも自由も得られないのだ。無邪気に見える子どもたちは、圧倒的に不自由なのだ。
 いつも親の都合に振り回され、なにをするにも大人の同意が必要で、自由に遊んでいるつもりでも、しょせんは親から「与えられた」自由だったりする。住む場所を決めることもできず、着る服さえも制限され、夕食のメニューすら決めることができない。「買ってもらう」「連れていってもらう」「食べさせてもらう」など、何事についても受け身にならざるを得ない。そう、ちょうど家族旅行で立ち食いそばを食べたり、巨人が負けると叩かれたり、といったように。
 僕の結論はこうだ。
 自由と責任は、必ずセットになっている。
 責任を自分で背負うからこそ、自由でいられるのだ。
 子ども時代を懐かしんでいる人は、責任の重みに耐えきれなくなっているだけだ。多少不自由であっても、できるだけ責任を遠ざけて生きていたい。そういう気持ちが「子ども時代に帰りたい」と言わせているのだ。でも、ほんとうの自由を手に入れれば、人生はうんと楽しくなる。

「なんで勉強しなけれないけないの?」「大人になんかなりたくないよ」
そんな子どもたちには、ぜひ、この本を読んでみていただきたい。
いままでの「ホリエモン」の身も蓋もなさが苦手だった大人たちも。


この本、なんだか、西原理恵子さんの『この世でいちばん大事な「カネ」の話』に似ているような気がするのです。
西原さんは、こう仰っています。

 貧乏人の子は、貧乏人になる。
 泥棒の子は、泥棒になる。


 こういう言葉を聞いて「なんてひどいことを言うのだろう」と思う人がいるかもしれない。でも、これは現実なのよ。
 お金が稼げないと、そういう負のループを断ち切れない。生まれた境遇からどんなに抜け出したくても、お金が稼げないと、そこから抜け出すことができないで、親の世代とおんなじ境遇に追い込まれてしまう。
 負のループの外に出ようとしても「お金を稼ぐ」という方法からも締め出されてしまっている、たくさんの子どもたちがいるんだよ。


 前にも言った。「貧困」っていうのは、治らない病気なんだ、と。
 気が遠くなるくらい昔から、何百年も前から、社会の最底辺で生きることを強いられてきた人たちがいる。
 屋台をひいて、子どもたちを養っているお父さんとお母さん。ふたりが一日中、必死で働いても、稼ぎからその屋台の「借り賃」を払ったら、残りはほんのわずか。そのわずかなお金でできることと言ったら、その日その家族が食べる、一食ぶんのご飯を手に入れることだけ。それでおしまい。
 それじゃ、いつまで経っても貧乏から抜け出せるわけがない。それで何代も何代も、貧しさがとぎれることなく、ずーっとつづいていく。
 そうなると、人ってね、人生の早い段階で、「考える」ということをやめてしまう。
「やめてしまう」というか、人は「貧しさ」によって、何事かを考えようという気力を、よってたかって奪われてしまうんだよ。


 貧困の底で、人は「どうにかしてここを抜け出したい」「今よりもましな生活をしたい」という「希望」を持つことさえもつらくなって、ほとんどの人が、その劣悪な環境を諦めて受け入れてしまう。
 そうして「どうせ希望なんてないんだから、考えたってしょうがない」という諦めが、人生の教えとして、子どもの代へと受け継がれていく。

「はたらく」ことは、きついし、めんどくさいし、難しいことです。
でも、もしかしたら、それこそが、いまの時代を生き、次の世代にバトンを受け継ぐための、唯一の「希望の種」なのかもしれません。


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この世でいちばん大事な「カネ」の話 (角川文庫)

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