琥珀色の戯言

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【読書感想】喧嘩上等 (うさぎとマツコの往復書簡3) ☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
浪費、ホスト、整形…荊の人生を突き進む“やさぐれババア”の中村うさぎと、祝祭の神輿に担がれた女神にして“キモデブ”女装渡世のマツコ・デラックス。強欲な思考の果てに“魂の双子”が見たものは…。


この「往復書簡」シリーズも三冊目。
これまでの内容の繰り返しだよなあ、と思うところもあれば、これだけ心の奥底から絞り出すような言葉が書かれている文章も少ないよなあ、とハッとさせられるところもあり。
これだけ長い間やっていると、どうしても「堂々巡り」になってしまうところも、あるのでしょうけどね。


今回は、お二人の「ネットに対するスタンスの違い」が、けっこう浮き彫りになっています。
ブログやSNSを道具として使うことに抵抗がなく「使う人間の問題」だと割り切っておられる中村さんと、どうもうまく付き合っていけない、というマツコさん。

(マツコさんから、うさぎさんへの手紙)


 結局、パソコンを中途半端に使えるにとどまったアタシは、未だスマートフォンの使い方も解らず仕舞いで、ブログやらSNSの類いはしていないのだけれども、もしもよ、そういったITツールっていうの? 呼び方も解らないわよ。要は、パソコンやらスマートフォンやらを、仕事以外にも使うことを苦としない人間だったとしても、ブロガーになっていたのかというと、やらずにいたような気がするのよ。
 だって、どこの誰だか判らない、どんな性格かも判らない人からの書き込みは、ロボットが書いているのと同じだもの。でもそれが、アタシが何かしらの意思を放った、自由を叫んだことに対する反応であるならば、それに応えることが自由を求めて叫んだ者としての責任なのかしら。
 アタシがブログをしていないものだから、友人のブログに「マツコ気持ち悪いんだよ」「俺もお袋も、マツコがテレビに出てるとすぐ消すわ」って、何分かおき書き込みする人がいたらしいの。それが何時間か続いた後、「酔っぱらった、今日はもう寝る」って言って、本当にそれで書き込まなくなったんだって。
 きっと、アタシのことをボロクソに言っている人たちも、その発言だけでは伝えきれない思いが心の奥底に潜んでいて、その彼もやるせない思いがきっと酔いに任せて出てしまったんだと思うのよ。ブログの書き込みとしてはいらない一言が、彼のいじらしい人柄をアタシに伝えてきたのよ。
 彼と一緒に酒をくみ交わして、酔い潰れるまで文句の言い合いをしたい、心底そう思ったわ……。


マツコさんの言葉の力があれば、ブログやSNSでもかなりの注目を集めると思うのです。
でも、これを読んでいると、マツコさんは「スルー力」みたいなものを、受け容れたくない人だからこそ、「やらない」のだろうなあ。
真面目に訪問者を向き合おうとすればするほど、こじれてしまうのは目に見えていて、だからといって、「無視する」のはイヤで。
マツコさんには、「もしかしたら、自分のほうが、こういう『荒らしのような書き込み』をやってしまう側になっていたかもしれない」というマイノリティとしての親近感があるのかもしれませんね。
「酔ったから寝る」って、たしかに、「ブログの書き込みとしてはいらない一言」です。
ただ、それを書いてしまったのは、「荒らし」も「ひとりの人間」だから、なのでしょう。
僕自身は、「そこまで相手にしていたら、自分が潰れてしまう」のがわかっているし、潰れたくないので、マツコさんほど親身にはなれないのだけれども。


中村うさぎさんが「閉経後のアイデンティティー」について語られているところが、僕にはすごく印象に残りました。

(うさぎさんから、マツコさんへの手紙)


 ただ、あたしがこれからどんな「女ごっこ」をやっていくかと言うと、やっぱり「閉経女はどこまで女でいられるか」への挑戦だと思うわ。生殖能力がなくなったってことは、生物的にはいわゆる「メス」じゃないわけよ。だからってオスでもないし、要は雌雄を超えた無性的存在になっちゃったのね。でも人間の「男」「女」の概念は、生殖能力ではなく、もっと抽象的なもの。だからこそ「女装」なんて表現が生まれるわけよね。
 生物的にはメスでなくなった私が、人間の世界ではどこまで「女」として通用するのか、同時私自身がどこまで「女」でいられるのか。これが、今後の私の「女ごっこ」のテーマよ。
 それはもしかすると、女装のあんたがどこまで「男」アイデンティティーを保っていられるか、また、世間がどこまであんたを「男」とみなしてるか、という問題とすごく近接しているかもしれないわね。そうね、私たちの性自認テーマが似て非なるものなのか、ほぼ同質のものなのか、何年か後にあんたと一緒にじっくり検証したい気もするわ。


僕は「灰になるまでオンナ」って言葉がどうも苦手で、「そこまでの執念が、人間にはあるものなのだろうか……」なんて考えてしまうのです。
世の中は「いつまでも若いままでいたい女性」(この往復書簡のなかにも「美魔女」の話が出てきます)の言葉ばかりが目立つけれど、実際はどうなのだろう?
そこまでこだわっている人たちは、ごく一部なんじゃないか、とか。
商売としては、「年相応に」の人よりも「美魔女指向」の人のほうが、お金をたくさん使ってくれる、という面もあるのかもしれません。
ただ、「女ごっこ」というのは、めんどくさそうだけれど、当事者にとっては、案外、楽しいところもあるのかな……
中村うさぎさん、そして、マツコ・デラックスさんが、これからどういう年の重ねかたをしていくのか、僕はけっこう興味があるのです。
これほど、自意識をリアルタイムで言葉にしながら年を重ねている人って、そうそういませんから。

(うさぎさんから、マツコさんへの手紙)


 こないだ、面白い話を聞いたわ。生物って原始の海の中のアメーバみたいなものから進化したわけだけど、もちろん最初は「目」なんかなかったのよね。アメーバに目はないじゃない? 光も届かない深海に住んでりゃ、目なんか必要ないわけよ。
 ところが、進化するにつれてだんだん陸に近づいて来て、光を感知する必要ができて、生物は初めて「目」という器官を獲得する。そして、この「目」の獲得が生物に爆発的な進化を促したらしいわ。
 でもね、彼らは最初、「目」を「見る」ことにしか使ってなかった。敵を視認したり、餌を見つけたり、そういうことにだけ使ってたわけよ。しかし、ある時、彼らは気づくの。自分が相手を見てるってことは、相手も自分を見てるんだってことに。そう、ここで生物は初めて「見る存在」から「見られる存在」になるのよ。つまり、「自意識」の誕生ってわけ。
 そして、どうやらこの「自意識」の発生によって、生物は飛躍的に知能を発達させたらしい。自分が「見られる存在」であることを知った途端に、生物の形が一気に多様化したの。生殖のために、敵の目をくらますために、あるいは餌を惹きつけるために。それだけじゃない。あらゆる行動様式や生活形態も進化した。生物は、そこで「思考する」ようになったのよ。
 私にこの話をした生物学者は、それを「知性の誕生」と呼んだわ。自意識の獲得によって、「知能」が「知性」へと進化したんだと。
 もっぱら「見る」だけの存在だった頃、生物には「他者」しかいなかった。でも、自分が「見られる」ことを知った時、初めて「自己」を獲得した。すなわち、「自己の発見」こそが思考を促し「知性の発生」へと繋がったわけ。


「自意識」って、厄介なものだと思われがちだし、僕自身も葛藤があります。
 けれども、こういう話を聞いてみると、「自分が見られる存在であること」を意識したからこそ、「自分」というものを実感できるようになったのだなあ、と考えさせられます。
 そして、「自分がどう見えるか気になる」からこそ「知性」が生まれた。
「自意識」そのものは、度が過ぎなければ、むしろ「必要であり、大切なもの」なのです。
ただ、その「度が過ぎない」というのが、きわめて難しいのだけれども。



うさぎとマツコの往復書簡

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