琥珀色の戯言

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【読書感想】ひとりぼっちを笑うな ☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
小さな頃から「分相応」的なものに自分らしさを感じ、「他人に害を与えない」ことを一番大事に考えてきた。友達だって少ないかもしれないけれど、別に悪いことでもないと思う。蛭子流・内向的な人間のための幸福論。


 テレビ東京の『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』で大ブレイク中の蛭子能収さんの「生きかた」論。
 まあ、時の人をちょっと喋らせて本にして売るっていうのは、いい商売だよねえ、なんて思いながら読みはじめたのですが、なんだか、けっこう「染みる」本でした。
 僕も「内向的な人間」なのですが、これまで多くの人が書いてきた「幸福論」って、「外を向け、積極的に動け」という圧力を感じるものが多かったのです。
 そして、「そういうことが苦手な人間は、幸福にはなれないんだな」と諦めるか、無理をして、外向的にふるまおうとするか、という選択肢しか無いような気がしていました。


 蛭子さんは、この本の冒頭で、こう仰っています。

 そして、もうひとつ。昨今の「友だち」偏重傾向みたいなものに、僕は日ごろから違和感を持っていたということがあります。
 僕は昔からひとりぼっちでいることが多かったし、友だちみたいな人もまったくいませんが、それがどうしたというのでしょう? ひとりぼっちでなにが悪いというのだろう? というか、むしろ「ひとりでいること」のよさについて、みんなにもっと知ってもらいたい。友だちなんていなくていい。ひとりぼっちだっていいんじゃないかな。

 いまの世の中で、この発言をすることは、けっこう、勇気がいることだと思うんですよ。
 突き詰めると、いまの「価値観」って、「拝金主義」か「拝愛情・友情主義」のどちらかを選ばなくてはならないように、僕にはみえます。
 でも、蛭子さんは、たぶん、その両者にも属さずに、それなりに幸せそうに生きている。
 この本を読んでいると、別に、お金も愛情も不要だ、とい言っているわけじゃないんですけどね。
 やっぱり生きていくにはお金は要るし、恋人や家族の存在に感謝することもある。
 ただ、蛭子さんの場合は「自分で自分の幸せを定義することによって、自分を縛ろうとしないひとなのだな」とは思います。
 必要なときに、必要なものが、そこにあればいい。

 テレビのロケで地方に行ったときは、収録終わりに出演者とスタッフで「みんなで一緒にご飯を食べましょうか!」という流れになることが多いんです。おいしいと評判の地元の料理屋さんに行って、広いお座敷みたいなところに案内されて、と。その土地の名産を大皿で出されます。
 それをみんなで、ワイワイ言いながら箸でつつくわけです。
「やっぱり、地元の名産はおいしいね!」とか言い合いながら。言ってみれば、その仕事が無事に終わったことを示す、簡単な打ち上げですね。
 でも、この大皿料理っていうのが、僕はどうも苦手で……いつも、つき合い程度に箸をつけるだけで、「ひとり分のカレーライスが食べたいなあ」「早くお開きにならないかな」と、頭のなかで思いながらやりすごしています。
 お開きになってみんなと別れたあとは、すべてから解放された気分で心が満たされます。その足でひとりぶらぶら街に出て、自分の好きなものを食べに行く。
 そもそも、他人が箸をつけたものを自分の口に入れるっていうことが、生理的にダメなんですよ。別に特段、潔癖性というわけではないし、それが汚いとか、自分がきれいと思っているわけでもない。でも、昔からダメというだけなんです。

 それを「潔癖性」というのではなかろうか……
 ちなみに、蛭子さんは、子どもの頃から、友だちの家で夕ご飯をごちそうになったり、弁当の時間に他の子からおかずの交換を求められるのがイヤだったそうです。

 でも、そういうことを人前で言うと非難されるのがオチです。実際、何度も非難されてきました。「みんなで一緒に食べているのに、蛭子さんはなぜそんなことを言うの?」「蛭子さんは協調性がないよねー」ってな具合に。だから、いまは少しだけ迎合してみんなで食べるようにしていますが、本当のところは、やっぱりひとりぼっちで食べたいんですよ。


 要するに「ひとりで気楽に食事をしたい」ということだけなのに、それを「協調性がない」と責められてしまうのですよね。
 こういうのがイヤだ、というのはよくわかります。
 僕も、職場の宴会で2時間、つくり笑いをしていたり、「ああ、隣に座っている人は、僕の隣でつらいなーと思っているんだろうな……」なんて考えているより、牛丼でもひとりで食べて、帰って本読みたいなあ、ということが多々あります。
 しかしながら、宴会の幹事とかをやらされていた経験からすると、大人数の飲み会などで、「出欠がなかなかはっきりしないヤツ」とか「ドタキャンするヤツ」は、非常に困るのも事実。
 あいつはなぜ飲み会に来ないんだ、とか言う偉い人もいますしね……

 だから、自分が食べ終わったら、すぐにでもその店を出たいというのが本音です。『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』の打ち上げのときなど、僕が食べ終わってモジモジしていると、太川陽介さんが気を遣ってくれて、「蛭子さん、もう帰っていいよー」って言ってくれるんですよね。その言葉を待って、「すいません。じゃあ、お先に失礼します。またお願いします。へへへッ」って、ひとりでサッサと帰ってしまいます。
 太川さんや制作スタッフにはとってもお世話になっているから、みんなと雑談したい気もしています。だから、「みんなといたい気もする」「やっぱりひとりになりたいなあ」そんなふたりの蛭子が入り混じった状態になると、頭をかいてモジモジしている状態になるというわけです。
 そして太川さんの一言で大人数から解放され、ひとりになったらはしゃいだようになって、そのまま街をぷらぷらと歩いてみたりして。


 ああ、これはもう、太川さんすごいな、と。
 あの番組に関わっている人で、蛭子さんに「もう帰っていいよー」って、さらりと言えるのは、太川さんしかいないもの。
 でも、太川さんは「最初から来なくてもいいよ」とも言っていないんですよね。
 スタッフとの溝ができないように、そして、蛭子さんが煮詰まりすぎないように。
 そのあたりの「さじ加減」が、すごく上手なんだよなあ。
 こういう気配りが、『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』を、「なんだか観たくなる番組」にしているのかもしれませんね。


 蛭子さんは、「友だち」について、こんな考えを述べています。

 いまの時代、「友だち」や「仲間」、あるいは「つながり」や「絆」を、必要以上に重く考える傾向があると思います。でも、そうまでして「友だち」って必要なのかなあ。たとえば、「友だちから言われたことは断れない」――これは違う。
「友だちだから断れる」ならわかるけど、「友だちだから断れない」というのは、僕には理解できません。冷酷な人間なのではなくって、もし、誘いを断れないような存在を「友だち」と呼ぶのなら、僕は「友だち」なんていらないという考えです。


 そもそも、「友だち」がいることのメリットってありますか?
 たとえば、「悩みを相談できること」でしょうか? でも、僕の場合、自分の悩みは、すべて自分で解決することにしているんです。というのも、誰かに悩みを相談して、「なるほど」と思ったことが、ほとんどないから。だって、その悩みについて誰よりも詳しいのは自分ですよね。だったら、誰かに話すよりも、とことんまで自分で考え抜いたほうが、きっといい結果が出るような気がするんだけどなあ。だから、自分の悩みを他人に話すということを、僕はまったくしません。

 長いこと、自由であることを第一に考えていると、いわゆる”友だち”と呼ばれるような人は、あまり必要ではなくなります。むしろ、友だちがたくさんいると、面倒くさいと感じることが多々あるくらい。友だちはいい存在でもある一方で、ときには、自由を妨げる存在になるからです。

 考え過ぎかもしれないけれど、僕が自由や時間を奪われるのを嫌うように、逆に誰かを誘うということは、その人の自由や時間を奪ってしまうことになるかもしれない。それは本望ではありません。誘った相手は、「いいよ、いいよ。全然構わないよ」と言ってくれるかもしれない。でも、本心はわかりませんよね。だから、自分が自由でありたいのなら、他人の自由も同じくらい尊重すべきというのが持論です。


 これを読んでいると、「協調性がない人」と、「他人に気をつかいすぎる人」って、実は、表面上は同じように見えることがあるのではないか?とか、考えてしまうのです。
 どちらも、「結果的には、ひとりで行動することを選んでしまう」のだから。

 昔は、子どもを連れて、家族でよくスキーに行ったりしていました。子どもが小さいときは、親が一緒にリフトに乗らないとダメじゃないですか。それがものすごくつらかったなあ。リフトに乗ってから降りるまでの時間、子どもとなにを話していいのか全然わからないんですよ。そもそも、なにを話したらいいのかとか、そういうことを考えること自体がちょっとつらい。「早く山頂についてくれ」って、そればかり考えていました。いまでも子どもとふたりきりは苦手かもしれない。
 とはいえ、もちろん子どもがかわいくないわけではないんですよ。自分の子どもだという事実は受け入れているし、親としての責任も、ある程度は取らないといけないと思っています。子どもは宝だと思っているし、彼らの存在があるからこそ仕事を頑張ってこられたという自負もあります。


 この本を読んでも、蛭子さんのように生きられる人って、そんなにいないと思うのです。
 こういう生きかたを貫くのって、それはそれで大変だろうし。
 でも、「自分が日頃感じていても、なかなか言えなかったことを、代わりに言ってくれて、ちょっとスッキリした」ような気はするんですよね。


 

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