琥珀色の戯言

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【読書感想】ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。単行本と同時発売!そして、Kindle版には単行本未収録のカラー写真も多数収録されています。
村上さん自身が被写体になっているものが、けっこうありました。
アイルランドの写真は、奥様が撮影したもののようです。

内容紹介
「旅先で何もかもがうまく行ったら、それは旅行じゃない」
村上春樹、待望の紀行文集。
アメリカ各地、荒涼たるアイスランド、かつて住んだ、『ノルウェイの森』を書き始めたギリシャの島々の再訪、長編小説の舞台フィンランド、信心深い国ラオス、どこまでも美しいトスカナ地方、そしてなぜか熊本。
旅というものの稀有な魅力を書き尽くす。


 村上春樹さんの旅行記を集めて単行本化したものです。
 村上さんは、核となる長篇小説だけでなく、短編集、エッセイなどもけっこう書かれているんですよね。
 つい先日は『職業としての小説家』という「自伝的エッセイ集」も上梓されています。

 
 ただ、旅行記となると、けっこう久しぶり。

 僕は1980年代から2000年代にかけて、『遠い太鼓』『雨天炎天』『辺境・近境』『やがて哀しき外国語』『うずまき鳥のみつけかた』『シドニー!』といったような紀行文的な、あるいは海外滞在記的な本をわりに続けて出していたので、『うーん、旅行記はしばらくはもういいか』みたいな感じになり、ある時点からあまり旅行についての記事を書かなくなってしまいました。「この旅行についての記事を書かなくちゃ」と思いながら旅をしているのも、けっこう緊張し、疲れちゃうものだからです。それよりは「仕事は抜きにし、頭を空っぽにして、とにかく心安らかに旅行を楽しもうじゃないか」という気持になっていました。
 しかし頼まれて旅行記を書く仕事を思いついたようにやっているうちに、次第に原稿も溜まってきて、今回ようやく一冊の本にすることができました。


 『シドニー!』は、2000年のシドニーオリンピックの観戦記ですから、もう15年も前になります。
 ちなみに、ここに収められている旅行記は、ボストンについて書かれた1995年のものがひとつある他は、2000年代後半から、2010年代半ばにかけて書かれたものがほとんどです。
 村上さんは、21世紀の最初には、なぜかあまり旅行記を書いていなかった。


 僕自身は、村上さんの作品のなかで旅行記は敬遠しがちだったんですよね。
『遠い太鼓』とか、分厚くて、なんか代わり映えもしないことがダラダラ書かれている、もったいぶった旅行記だなあ、なんて思っていて。
 それは僕が『遠い太鼓』を読むには、若すぎたのかもしれません。


 この『ラオスにいったい何があるというんですか? 』を読んでいて感じるのは、「村上春樹という人は、『何もないところ』から、『何か』を掘り出すのが滅法うまい」ということでした。
 アイスランドって、本当に「何もない」ところみたいなんですよ。
 その国を旅行しても、書くことなんて、無いんじゃないか?
 ところが、村上さんは、「何もない」ありさまを、心に響く言葉にしてしまう。
 『職業としての小説家』のなかで、村上さんは、こんなふうに書いておられます。

 僕が最初の小説『風の歌を聴け』を書こうとしたとき、「これはもう、何も書くことがないということを書くしかないんじゃないか」と痛感しました。というか、「何も書くことがない」ということを逆に武器にして、そういところから小説を書き進めていくしかないだろうと。そうしないことには、先行する世代の作家たちに対抗する手段はありません。とにかくありあわせのもので、物語を作っていこうじゃないかということです。


 村上春樹さんは、旅行記でも、「旅行ガイド的な感動的な風景」ではなくて、「何もないところに立ち上がってくる、自らの心のざわめき」みたいなものをうまく掬い上げているのです。
 人間って、感動的な光景には「絶句」してしまうけれど、何もないところに放り出されると、自分に向き合ってしまうじゃないですか。


 ラオス旅行記より。

 ルアンプラバンで歩いてのんびり寺院を巡りながら、ひとつ気がついたことがある。それは「普段(日本で暮らしているとき)僕らはあまりきちんとものを見てはいなかったんだな」ということだ。僕らはもちろん毎日いろんなものを見てはいるんだけど、でもそれは見る必要があって、次々に巡ってくる景色をただ目で追手っているのと同じだ。何かひとつのものをじっくりと眺めたりするには、僕らの生活はあまりに忙しすぎる。本当の自前の目でものを見る(観る)というのがどういうことかさえ、僕らにだんだんわからなくなってくる。
 でもルアンプラバンでは、僕らは自分が見たいものを自分でみつけ、それを自前の目で、時間をかけて眺めなくてはならない(時間だけはたっぷりある)。そして手持ちの想像力をそのたびにこまめに働かせなくてはならない。そこは僕らの出来合の基準やノウハウを適当にあてはめて、自発的に想像し(ときには妄想し)、前後を量ってマッピングし、取捨選択をしなくてはならない。

 たしかにこれは、そういう「普段きちんと見ていなかったものを、しっかり見て書いた文章」なのです。
 ただ、「哲学的」に自分に向き合うだけではなくて、美味しいレストランや走りたくなるジョギングコースを前にすると、高揚感があふれてくるのも伝わってくるんですよね。
 そのあたりのバランスが、絶妙なんだよなあ。


 また、この紀行文のなかでは、村上さん(夫妻)の普段の生活ぶりが垣間見えるのも、魅力のひとつです。

 話によれば(実際に見たわけじゃないので本当のところはわからないけど)地元の人々はパフィン(日本では「エトピリカ」とも呼ばれる鳥)を丸焼きのかたちで食べるみたいだ。でも観光客向きのレストランでは、丸ごとそのままではやはり刺激が強いのだろう、かたちがわからないように料理する。僕は鳥を食べないので、かわりにうちの奥さんが「本日のパフィン・ディッシュ」を食べた。チキンなんかに比べると、けっこう味に野趣というか、クセがあるということだ。味の感じは雀なんかに似ているかもしれない。だから料理には濃厚なソースが使われている。「とくにもう一回食べたいとは思わないけどな」とうちの奥さんは言っておりました。この人は食べ物に対する好奇心が人並み以上に強くて、蛇でもイグアナでも、いちおうメニューにあればなんでも食べてみるんだけど、ほとんどの場合「もう一回食べたいとは思わないけどな」と言う。しかし地元の人にとっては、「パフィン、こたえられないよね。おいしいよね」ということになるのかもしれない。味覚というのはローカルなものだから。


 このやりとりなど、村上夫妻が食べながら会話している様子が伝わってきます。
 僕は食べ物については保守的というか「食べたことがないものは好きこのんでオーダーしない」ほうなので、これを読んで、「そういう『特殊な食べ物』は、そんなに美味しくない可能性が高いって、わかりきっているはずなのに!」と思ったのですが、「とりあえずどんな味がするか確かめてみる」のが大事な人というのも、いるのでしょうね。


 村上春樹ファンには、たまらない「紀行文集」だと思います。
 1995年に書かれたものと、2014年に書かれたものを比べてみると、やはり、「経年変化」も感じますし。
 

 最後に、村上さんの疑問に、僕が答えます。

 熊本県の道路事情はなかなか悪くないようだ。季節柄つばめがたくさん低空を飛んでいて、それは僕にヤクルト・スワローズの命運についていろいろと考えさせることになった。熊本までやってきて、ヤクルト・スワローズのことを考えたってしょうがないんだけどね(広島ファンも、鯉を見るたびに広島カープのことを考えるのだろうか?)。


 あるカープファンより。
 もちろん、考えます。
 鯉というのは魚のなかでも身近な存在のためか、いろんなシチュエーションで登場してきます。
 神社仏閣の池の鯉、みたいなものに関しては「敬して関せず」という態度をとりつつ、「ああ、昨日の継投のタイミング、どうにかならなかったのか……」などと思うくらいなのですが、鯉って、ときどき「食べ物」として登場するのです。バファローズファンなどはもっと大変かもしれませんが、鯉というのは、「食べないことに決めてしまえば、年に1回くらいやり過ごせば、食べずにすむ」ので、いつも逡巡してしまうのです。
 うーむ、目の前の鯉は、もう死んじゃって料理されているので、ここで食べないと、「命の無駄遣い」みたいだしなあ……とはいえ、鯉料理って、あえて節を曲げて食べるほど、僕は好きでもないし……
 カープが連敗していると、「恋がしたい」というつぶやきも、「鯉が死体」に聞こえてくるのです。
 「恋がしたい、恋がしたい、恋がしたい」が、「鯉が死体、鯉が死体、鯉が死体」に。死体3連打。
 本当に、いろいろと「厄介」なんですよ、ファンだからしょうがないんだけど。「鯉は盲目」って言いますし。



職業としての小説家 (Switch library)

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