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【読書感想】英語学習は早いほど良いのか ☆☆☆☆


英語学習は早いほど良いのか (岩波新書)

英語学習は早いほど良いのか (岩波新書)


Kindle版もあります。

英語学習は早いほど良いのか (岩波新書)

英語学習は早いほど良いのか (岩波新書)

内容紹介
子どもたちに早くから英語を学ばせようというプレッシャーが強まっている。「早く始めるほど良い」という神話はどこからきたのか? 大人になったら手遅れなのか? 言語習得と年齢の関係についての研究の跡をたどり、問題点をあぶり出す。早期開始よりも重要な要素とは何か、誰がどのように教えるのがよいのだろうか。


 うちにも2人の子どもがいるのですが、「英語をいつ頃から、どのように学ばせるのが良いのか?」というのは、けっこう悩ましいところです。
 勉強にしても、スポーツにしても「早期教育が大事」という話は多いので、英語に関してもそうなのだろうな、とは思うのですが、英語だけ勉強していれば良い、というわけでもないですし。
 そもそも、「早いほうが良い」というのに、個人的な経験則以外の「客観的な根拠」があるのだろうか?


 この本、「早く英語を勉強させないと、あなたの子どもは出遅れますよ」という脅迫的な内容でもなく、また、「大きくなってからでも、間に合うから大丈夫です!」と「すごくうまくいった人の例」を挙げるわけでもなく、さまざまな研究結果をもとに、「英語学習の適切な時期とやりかた」を検討している本なのです。

 日本では、小学校での英語教育が人々の大きな関心事の一つだ。世界各国では、公教育における英語教育の開始年齢はどんどん下がりつつある。東アジアでは、子どもの長期留学はもはや一部の特権階級の専売特許ではなくなりつつある。韓国では、政府の「慎重に」との助言にもかかわらず、小学生の海外留学の人気はなかなか衰えず、社会問題にまで発展している。中国では、「妊娠したら、すぐに英会話の勉強を始めよう」という英語教材の広告を見たこともある。ここで英語を勉強するのは、母親なのだろうか、それとも胎児なのだろうか。
 韓国、中国、台湾などでは、日本より一足早く小学校で英語教育を始めた。これらの国では、英語学習は英語フィーバーとも称される過熱ぶりである。その影響は、低年齢の子どもたちの生活をどんどん侵食しつつある。
 でも、本当に子どもは言語習得の天才なのだろうか。子どものころから語学学習を始めれば、ネイティブ・スピーカーのように話せるようになるのだろうか。本書では、言語習得と年齢との関係について、いったい何がわかっていて、何がわかっていないかと探ってみようと思う。

 まあ、だからこそ、「本当にどうなのかは、何とも言えない」というところも多くて、「さっさと勉強させなさい!」みたいな「東大ママの経験則本」みたいな爽快感がないのも事実なのですけど。


 この本によると、やはり「ネイティブと同レベルの言語能力」を身につけるには、まさに「物心つく前」から、その言語にさらされていないと、難しいようなのです。
 読んでいて、「なるほど」と感じたのは、著者は「ある言語をネイティブと同じレベルで使いこなす能力」と、「外国語として学び、ネイティブ(あるいは、それを共通言語としている他国の人)とのコミュニケーションが十分可能な能力」(=外国語教育)を分けて考えていることでした。

 
 母国語と同じレベルで外国語を使いこなせるに越したことはないけれど、現実問題として、それはあまりにもハードルが高いし、コストも大きいのです。


 そして、「母語と同じレベルで使えるようになる」には、やはり早期に現地でその「音」に触れるのが効果的ではないか、という説と研究データを紹介したうえで、「外国語教育」について検討しています。

 早期外国語教育への関心の高まりの一つの要因に、「言語学習は早く始めた方が効果的である」という考え方があることは間違いないだろう。
 本書でこれまで検討してきたように、第二言語習得においては、臨界期という特定の時期があるかどうかは別として、何らかの年齢的な制約があることは否定できない。言語分野別に、その制約の強さやパターンには多少違いがあるようで、特に音声の習得においては、年齢的な制約が早い時期からあると考えている研究者が多い。その一方で、後発で習得を開始して母語話者に近いレベルに達した成功者の事例も報告され、臨界期の存在を疑問視する研究者もいた。しかし後発で学習を始めて非常に高い熟達度に至るにはさまざなま内的・外的条件を整える必要がありそうで、多くの人にとってはハードルが高い。こう考えると、やはり早くから始めるほうがいいという気がしてくる。
 しかし実は、まだ研究例は多くないのだが、こうした「早ければ早いほど良い」という考えは、外国語環境では支持されていないのである。むしろ、逆を支持する報告も少なくない。


 「ネイティブと同じレベル」を求めない、「通じる外国語の習得」が目的であれば、「必ずしも早いほど良い、というわけではない」と考えている研究者が多いのです。

 ここで第二言語環境と外国語環境の何が違うのか、少しおさらいしておこう。第1章で触れたが、第二言語習得の場合、多くの移民が経験するように、第二言語は使われている環境の中に入り込み、母語話者から大量のインプットを受け、恒常的に使う機会がある。一方、外国語学習では、日本人が日本で英語を学習する場合のように、インプットの量もその言語を使用する機会も大幅に制限されている。もちろん、これはかなり大まかな分類で、学習している言語の使用量も質も地域によって差がある。英語のような国際語の場合、地域内での英語の使用が頻繁で、外国語環境と第二言語環境との境があいまいになっているケース(北欧など)もある。
 両者の違いは、母語話者との接触の程度(つまりインプットの質と量、および使用機会の頻度)だけではない。習得の仕方も大きく違う場合が多い。特に外国語環境では、正規の授業という形で学習の大部分が進められるのがふつうである。学習者の言語習得に対する態度や動機づけなどの面でも、第二言語環境とは違いが大きいことが予想される。こうした違いが、第二言語習得での知見をそのまま外国語学習に直輸入できない状況を生み出しているのである。


 著者は、スペインのバルセロナで1995年から2004年に行われた「BAFプロジェクト」の結果を紹介しています。
 これは、スペイン語とカタロニア期を話す英語学習者を対象としたもので、被験者の英語学習開始時期を8歳、11歳、14歳、18歳の4グループに分け、それぞれ、英語の指導時間が200時間、416時間、726時間の時点で、英語の言語テストが行われました。
 

 結果は、200時間、416時間の指導の後では、学習を遅くに開始したグループの方が、おしなべて習得の度合いが高かった。年齢の高い学習者の方が、語学学習の習得スピードが(少なくとも短期間では)速いことは、第二言語環境下での先行研究でも知られていたことであり、それほど驚くにはあたらない。しかし、最後の8年間にわたる726時間の指導の後でも依然として、8歳から始めたグループより11歳から始めたグループの成績の方が多くのテストで良かったのである。ただ、一部のテスト(音素の区別など)では、8歳から始めたグループが追いつくものもあった(音素とは第2章で説明したように、音の最小単位である)。
 統語・形態素(文法)の習得に関しては、12歳ごろから、急速に習得が進むことも示された。最も意外だったのは、発音など音声関連のテストで、学習開始年齢による影響がみられなかった点である。「意外」というのは、一般に幼い子どもの方が音声の習得に優れているという印象が強いからだ。しかし、音声の習得に影響があったのは、学習開始年齢ではなく、受けた授業時間数の方であった。


 もちろん、早くからはじめたほうが、生涯学習時間でいえば、長くなるのではないか、という考え方もできるのでしょうけど、著者がこの新書で紹介しているその他の研究結果からみても、ネイティブと同じレベルではないレベルの「外国語の習得」においては、早すぎる教育は効率的ではない、という見解が多いようです。
 

 できるだけよい発音を身につけたいと思うなら、早く学習を始めてもいいかもしれない。音声の習得にはなんらかの年齢的制約があることは否定できないからだ。しかし、それは膨大なインプットが得られることが前提での話である。過度の期待はもたない方がよい。


 生まれたときから、外国で生活する、というような環境でもないかぎり、幼児期から英会話教室に通う程度では、ネイティブ・スピーカーのようになることは極めて難しい、ということなんですね。
 だからといって、そのためだけに生まれたときから外国で生活させるというのも、現実的には難しいだろうし、そうなると、日本人としての「母語」が失われてしまう可能性も高い。
 そもそも、「ネイティブのように喋れること」が必要なのは、通訳などのごく一部の専門家だけですし。
 国際会議などの場でも、「英語が母語ではない人たちを相手に、英語でコミュニケーションする機会」のほうが多いくらいですから、「英語の上手さよりも、話の中身」が重視されます。
 もちろん、英語が使いこなせるというのは大きな武器だし、僕などは、「英語圏に生まれていれば、この論文を辞書を引かなくてもに読めるのに……」と、いつも「不当な目にあわされている感」があるのですけど。
 まあ、日本語で書いてあっても僕には理解できないだろうな、というものも少なくないのですが。


 ちなみに、「ネイティブの外国人教師に教えてもらうこと」のメリット・デメリットについても、著者は述べています。
 異文化に触れることによる子どもモチベーションの上昇というメリットがある一方で、英語教師として日本にやってくるネイティブ・スピーカーの大部分は、言語教育の専門家ではありません。

 ネイティブ・スピーカーの教師からは、より多くのインプットが得られそうな期待があるが、それもケース・バイ・ケースのようだ。ネイティブ・スピーカーと非ネイティブ・スピーカーの英語教師が行った授業中の英語のインプット量を比較したある研究によると、それぞれのグループ内での差は大きいが、グループ間での差はなかったという。つまり、ネイティブ・スピーカーかどうかが問題なのではなく、個々の教師の資質の問題なのだともいえる。
 発音に関しては、ラーソン=ホールの研究(第6章)ですでにみたように、ネイティブ・スピーカーからインプットを受けたか否かによる音素識別能力の差は、学齢期以降に英語学習を始めた日本人の間にはみられなかった。


 「外国人教師信仰」は、必ずしも適切ではない、ということなんですね。
 当たり前の話ですが、外国人の語学教師のなかにも、優秀な人がいれば、そうでない人もいる。
 それは、日本人の英語教師と変わりがない。
 もちろん、外国の人と直に接する、という意味では、言語学習だけではない「効果」もあるのだろうけれど、少なくとも「外国人教師に習ったから、英語が上手くなる」わけではないみたいです。


 「英語教育」に関する現在の知見がコンパクト、かつ客観的にまとめられている好著だと思います。
 もちろん、この新書の内容だけを鵜呑みにするわけにはいかないだろうけど、「英語教育についての親の思い込み」の多くを修正してくれる一冊です。

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