琥珀色の戯言

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【読書感想】僕が伝えたかったこと、古川享のパソコン秘史 ☆☆☆☆☆



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内容紹介
本書は、古川享がアスキーに入社した頃のパソコン黎明期から、マイクロソフトの日本法人であるマイクロソフト株式会社設立の過程、MS-DOSから現在のWindowsに至るパソコンのOS(基本ソフト)がデファクトスタンダードになる過程、日本のパソコンの標準マシンであったNECの98シリーズが一時代を築き、その後、世界標準のDOS/Vマシンに移行する過程など、パソコンの進化の激動の時代を中心に、それぞれの時代の様々な現場で何が起こっていたのか、そこで輝いていた人たちの知られざる活躍を語ったものです。


【目次】
(抜粋)
■アスターインターナショナルでのアルバイ
秋葉原マイコンショップという文化の発祥地
■手作りだったヒット本『BASIC Computer Games』
■仕事2割、遊び8割、そこから様々なソフトウェアが生まれた
■世界初のラップトップコンピュータM100開発秘話
■日本の初代パソコン代表機PC-8001の試作機
PC-98の陰になったPC-100の悲哀
DOS/Vが標準になったパソコンの一番長い日
■辛くも勝利、PC-98搭載BASICのライセンス攻防戦
UNIXの日本語化
■日本のパソコン史の金字塔、シフトJIS誕生の舞台裏
マイクロソフトが作って売ったApple ⅡのZ-80ソフトカード
CP/MMS-DOS、運命の分かれ道
ビル・ゲイツWindowsの開発を決意した瞬間


 マイコン月刊アスキー秋葉原マイコンショップ、PC-8001……
 この言葉に「おおっ!」と心躍らせてしまう中高年の皆様、こんにちは。
 何それ?という方々は、残念ながら、今日は御縁がないようです。
 明日はもう少し万人向けの本の感想だと思うので、今日は勘弁してください。


 著者の古川亨さんは、1954年生まれ。
 アスキー出版取締役、マイクロソフト株式会社社長、米マイクロソフト副社長を経て、現在、慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科の教授として勤務されています。
 いわば、日本のマイコン、そしてパソコン(しかし、いつからマイコンはパソコンと呼ばれるようになったんでしょうね、ちょっと疑問になってきた)の歴史を最前線でつくってきた人なのです。
 その古川さんが、コンピュータに魅せられ、新しい技術と向き合いながら、「コンピュータを仕事にすること」と「コンピュータ業界の黎明期に活躍していた、面白い人々」について、丁寧に、そして愛情たっぷりに語っておられるのが、この本なのです。
 正直、僕の理系能力では、書かれている技術的なことは20%くらいしか理解できていないのですが、僕が学生時代にマイコンショップで、あるいはマイコン雑誌で見て憧れていたコンピュータをつくってきた人たちのナマの姿が、ここには描かれているのです。


 大学時代、秋葉原マイコンショップでアルバイトをしていた古川さんは、マイコン雑誌を創刊したばかりのアスキーに入社します。

 アスキーに入社したのは1979年2月だった。アスキーにいた8年間はほぼ2年間ずつに分けられる。月刊誌の副編集長をやり、ソフトウェア開発本部の事業責任者をやった。
 アスキーに入ったのは、僕が米国遊学中、ロサンゼルスに来た西(和彦)さんに「大学なんて行ってたら手遅れだ。アスキーは大きな会社になる。今入ったら取締役にしてやる」と言われたのがきっかけだった。


 その頃のアスキーは、表参道駅から10分ぐらいのマンションの一室にあった。ワンルームの部屋で、玄関にスニーカーが30個ぐらいあって、何人かがミカン箱をおいて原稿を直しているような状態だった。風呂桶の中に座って、風呂の蓋で原稿を書いている人もいた。
 「僕の机はどれですか」と聞いたら、これだと言われたのが画板の4枚のうち1枚で、ベランダに出てその上で原稿を書け、ということだった。
 毎月原稿を書いたり、ロットリングで図版を描いたり、文字修正のために本から文字拾いをしたりして版下を作成していた。毎月原稿が遅いからフィルム入稿ばかりだったり、棒打ちで上がってきた写植を版下制作の人と一緒に切り貼りしたりの毎日。こんな仕事をしていた人たちが、後に日本のパソコン業界をリードしていくことになるのだった。

 社員もバイト君も同じ労働環境だというのがアスキーの特長でもあった。仕事を取ってきた時に、誰が責任を持って仕上げるかは、社員でもバイト君でも関係なかった。バイト君たちは、クラブ活動の代わりのように学校帰りにふらりと来て、お金がもらえるからではなく最新のコンピュータを好きなだけ触れるからという理由で入り浸っていたのだ。そんな状況で彼らは、原稿を書くのに必要だから、かくかくしかじかなプログラムを書いてくれないかとか、このプログラムのダンプリストを印刷して版下に貼っておいてとか、いろいろな仕事を頼まれていたのである。作ったプログラムのロイヤリティは学生のバイト君にも払っていた。一生懸命働いて会社に貢献した人にはきちんと払うという、不公平感のない環境だった。中島さんなどはCANDYというPC9801シリーズ向けのパーソナルCADアプリのロイヤルティーで、大学在籍中にマンションを購入していたので、それくらいの収入にはなっていたのだろう。


 初期のアスキーでは、新しいパソコンに触れるだけで幸せ、という人たちが入り浸っていました。
 仕事ができる人は、年齢や立場にかかわらず、それなりの報酬をもらっていたのです。
 これを読んでいるだけで、コンピュータという新しい世界に飛び込んできた若者たちのエネルギッシュな姿が目に浮かんでくるようです。
 いやまあ、もちろん、雑誌編集の世界では「締切間際のタイトなスケジュール」みたいなのもあったとは思うのですけど。


 リアルタイムで、『月刊アスキー』や『I/O』を読んでいた僕は、懐かしい雑誌の表紙や記事の一部だけでも、ものすごく嬉しくなってしまうのです。

 1982年のパロディー版アスキー月刊アスキー1982年4月号のとじこみ付録である年間AhSKI! 2号)に掲載された表参道アドベンチャーは、国産アドベンチャーゲームの草分け的存在だった。アスキー編集部の高橋直穂さんがAdven-80というアドベンチャーゲーム開発システムの記事が載っている『DDJ』(Dr. Dobb's Journal:ドクター・ドブズ・ジャーナル)を持ってきて、パロディー版ゲームのネタにしようという話になった。
 高橋さんが考えたシナリオは、当時アスキー編集部のあった瀬川ビルを舞台にした謎解きである。そこにあるのは悪の組織で、カセットテープやフロッピーディスクの大敵である磁気で破壊工作をするというもの。N極、S極だけの磁気単極子が発見されたというパロディー記事も載せ、MMB(Monopole Magnetic Bomb:磁気単極子爆弾)を見つけて、それをしかるべきところに設置して脱出するゲームだ。


 僕はあの頃、マイコンに憧れてはいるものの、まったく買えるアテのなかった「ナイコン小学生」だったので、この『表参道アドベンチャー』の記事を、文字通り「指をくわえて」読んでいた記憶があります。
 当時は、面白そうなゲームの記事を読んで、遊んでみたいなあ、と思うだけで、けっこう幸せだったのだよなあ。
 のちに遊んでみたら、「自分で想像していたときのほうが、ずっと面白いゲームだった……」ということも少なからずありました。
 この時代、アメリカの有名なコマンド入力型テキストアドベンチャーゲーム『ZORK』に憧れていたのだけれど、海外のパソコンを買えるわけもなく、英語もできずで、「アドベンチャーゲームってやつを、一度やってみたいものだなあ」と思っていたんですよね。
 のちに『マイコンBASICマガジン』で、山下章さんが『チャレンジ!AVG&RPG』で、「画面写真を公開する」という禁断の企画をはじめて、僕も毎回楽しみにしていたのですが、こんなネタバレっぽい企画も、当時は「こうして画面写真が並んでいると、安心して買える」という面もあったのです。
 いやほんと、酷いゲームは、とてつもなく酷い時代でもあったから。

 日本の初代パソコンの代表機であるNECPC-8001は、1979年9月に発売されている。その数カ月前、僕がアスキーに入った数日後に、西さんから「NECPC-8001というパーソナルコンピュータの試作機を作っているから、それに助言してくれ」、と頼まれた。一緒に向河原の工場に行ってみると、「こいつはアメリカに居てパソコンについてはよく知ってますから、こいつの話を聞いてやってください」と説明するや、西さんはなんと、いきなり床にごろっと寝転んで、寝てしまった。
 しかたないので「失礼しますね」と言って試作機に触り始めたら、「おーっ」というどよめきが起きた。「どうしたんですか?」と聞くと、「古川さん、両手でキーボードが叩けるんですか?」と。当時は、タイプライター型のキーボードを叩けるエンジニアがいなかったのである。NECにも。

 小学生がブラインドタッチをやっている今からすると、まさに「隔世の感」があります。
 DOS/Vが「パソコンの標準」となった交渉の舞台裏や、アスキーマイクロソフトの「分離劇」についての詳細についても、当事者としての古川さんの貴重な証言が収められています。
 観客席から、マイコンの歴史を眺めてきた僕としては、こうして古川さんが記憶を整理し、遺してくださったことに、「ああ、なんとか後世の人に語る記録を残すタイムリミットに間に合った」という気持ちもあるんですよね。
 多くの当事者が表舞台から退場しつつあるなかで、日本のパソコンという文化の黎明期を記録するために残された時間は、もうそんなに長くはないと思うから。
 そして、ひとりのヒーローの物語としてではなく、現場でどんなことが起こっていたのか、がそのまま描かれているこの本は、ものすごく貴重な記録なのです。

 
 個人的にショックを受けたのは、『ログイン』『ファミ通』の元編集長・小島文隆さんが、2015年に亡くなられていた、ということでした。

 文学青年だった小島さんは「俺はコンピュータはわからない」が口癖で、コンピュータ好きというよりは、面白そうなことが好きというタイプだった。雑誌を作ることが大好きで、記事を編集し、原稿を書いたり校正をしたりといったことを夜な夜なやっていた。
 広告主のメーカーの人と飲みに行き、酔うと決まって相手を罵倒し始める人だった。それでも嫌われることはなく、反対に面白い編集長だと気に入られていた。夜中に酔っぱらって編集部に戻り、大声で怒鳴り散らすこともあったが、編集長としての手腕は誰もが認めるところだった。
 小島さんはとてもアグレッシブな人で、1986年6月にそれまでのログインの連載記事を雑誌化して『ファミコン通信』を創刊した。また、1988年にはログインを月2回刊の雑誌に進化させた。さらに1989年には、エンターテインメントを一歩離れ、パソコン初心者向けに『週刊アスキー』の前身である『アイコン』を創刊している。

 僕の10代は、小島さんがつくった雑誌とともにあったのだなあ、とあらためて思います。
 そうか、亡くなられてしまったのだなあ……

 
 僕にとっては、読んでいると、あれこれ思い出が溢れてきて、全部写経してしまいたくなるような本、なんですよ。
(ちなみに、かなり分厚いですが、後半3分の1は「用語解説」です。これも貴重な資料ですが、まだ話の続きを読みたい!とも思いました)
 万人向けでないことは百も承知ですが、ここまで読んでいただけたあなたには、きっと、大切な一冊になるはず。
 これをきっかけに、「日本マイコン史」を当事者たちが書きのこす流れが生まれてくれたらいいなあ、と願ってやみません。

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