琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「元気」があれば、なんでもやっていいのか?

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20031202

↑に以前書いたのだが、この「村上春樹的」と「村上龍的」というのは、多くの個人サイトのありかたにおいても言えるのかもしれない。もちろん、同じ人間が書いていても、「春樹的」になるときもあれば、「龍的」になる場合もあるのだろうが。
http://www.mypress.jp/v2_writers/reiko_kato/story/?story_id=1239919
↑での言及を読んで考えたのだが、「元気がなければ書けない」というのは、僕にも理解はできる。例えば、ネットバトルとかをやっているときって、自分の心臓がバクバクと音を立てているのを、感じたりもするし(逆に、その程度の小心者なので、僕はバトルを好まない)。他者に積極的に言及したり、自分の優位性を主張したりするようなときには、やっぱり「元気」がないと書けないだろうな、とは思うのだ。
ただ、僕としては、「心がくたびれているときに、自分に言い訳をするために書く」という行為は、それはそれである種のストレス解消になると思うし、とくにフィクションの世界というのは、「自省的」なのではないかと感じることが多いのだ。そういうときの自分の文章も最良の読者は、あるいは、自分自身なのかもしれない。そして、自分で自分を「まあ、お前はどうしようもないやつだけど、まあ、そういうやつがいたっていいんだよ」と慰めていたりするわけだ。
「書けているんだから、安心」なんていうのは、自分で感じることはあっても、他人に言われることじゃない。書きながら死んでいった人は歴史上たくさんいるし(いや、「歯車」とか「或る阿呆の一生」とか「グッド・バイ」が作品として「書けていた」かどうかは微妙だけどね)、逆に、本当に底の底という精神状態よりは、「少し良くなりかけのほうが、危ない」なんてこともある。実際にネット上で、「書きながら死を選んだ」という人を僕は知っている。いや、その責任を誰かに問おうというわけじゃない。でも、わざわざ「そんなこと言うヤツに限って死なない」と口にする必要性があるのか?ということなのですよ。そんなのさ、そう思っていても言わないのが「大人」なんじゃないかね。だから、いくら元気がありあまっているとしても、そんなに言及したいのであれば、「元気な人相手にやってくれない?」ということなのですよ。「空中元彌チョップ」は、場所がハッスルのリングの上で、相手が鈴木健想だからネタになるわけで。
要するに僕はね、「他人を踏み台にして、自分を優秀に見せる」より、「自分で自分を慰める」ほうが好きなんですよ。マスターベーション体質、とでも言いますかね、フォー!!
でもさ、自分で自分の家族のことを「うちの母親ってバカなんだよね…」なんて言うことはあっても、赤の他人に「あなたのお母さんはバカだよね…」って言われるとムカつきますよね。そんなことは考えてみたこともない、のかな。

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