琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

人は「立ち位置」から自由になれないのか?

http://ameblo.jp/number29/entry-10003659250.html

↑を読んでいたら「立ち位置」についていろんなことを考えたので、あまりとりとめもなくだらだらと書いてみようと思う。なんというか、僕は20代前半くらいまでずっと、「容姿とか職業とか財産とかではなく、自分自身を評価してくれる人と付き合っていきたいなあ」とか思っていて、それはなんというか、眼をつぶって、耳をふさいでいても伝わるような感情だと考えていたわけだ。たとえば、手と手のぬくもりのような。でも、考えてみればそれも「触覚」なわけだから、そういう心と心のつながりなんて、ニュータイプでもなければ無理なんだよな実際は。さて、それから10年くらいたった今になって思っていることは、実は、僕が自分自身で「本質」だと思いこんでいるものなんて、ほんとうにまったくもって「からっぽ」でしかないのではないかということなのですよ。僕は最近まで気がつかなかったのだけど、僕なんて、「銀河鉄道999」の車掌さんみたいなものなのではないか、ということなんですよね。実は「本質」と自分で思いこんでいるものなんて、まったくの抜け殻みたいなもので、着ている「車掌の服」のほうが本質なのではないか、とか。あれが白衣だったら僕だね。拉致被害者横田めぐみさんのことが報道されるたびに、なんとなならないものかと思うのだけれど、その一方で、めぐみさんを救うために、100人の自衛隊員が犠牲になるような「救出作戦」が立案されたら、僕は正直、「そんな割にあわないことを」と思うだろう。もし家族や知り合いがその隊員の中にいれば、「やめてくれ」と叫ぶはずだ。逆に僕がめぐみさんの身内だったら、「犠牲を払ってでも、助けてくれ」と思うだろう。いや、確かに世の中には冷静に物事を分析できる人はたくさんいる。「1人を助けるために100人が犠牲になるのは非効率的」なのはまちがいない。でも、その「1人」の側としては、そういう「数字としての効率」よりも身内の顔を観たいと思うはずだ。僕は、そのほうが普通だし、正しいと感じる。そういう利害関係を調整するのが結局は「法」なのだろうけれども。
実は「わりばしによる脳損傷事件」に関して、僕のところにも何通が苦情メールが送られてきた。「死ね」「辞めろ」「お前にあの犠牲者の家族の気持ちがわかるのか!」とか、そういう類のものだ。たぶん彼らは、僕が書いた内容をキチンと読まずに(あるいは、医者どうしだから弁護しあっている、という先入観に浸りきって読んで)、こいつは許せん!という結論を出したのだと思う。正直、僕が何を書いても「医者がこんなことを…」という先入観で読まれるのは悲しい。昔のテレビゲームの話や最近観た映画の感想やネット論に、そんなものは関係ないじゃないか。でも、僕がいくらここで画面に向かってもだえてみたところで、そういう「先入観」なんて、消し去れはしないのだ。僕からすれば、これを読んでいる人たちが、ただ「自分は医者だ」と言っているだけで何の証拠も提示していない人間を、こいつは医者だ、と信じているのは、いささか疑問ではあるのだけれど。なりすましだとか、疑ったりしないのだろうか。
結局人は、自分の立ち位置から逃れられないし、ならば僕は、自分の立ち位置から見える風景をなるべく叙事的に書きたいと思っている。なんというか、人っていうのは、「立ち位置」がすべてというか、人なんて、立ち位置にしか違いはないんじゃないか、という気もするしね。手のぬくもりでわかるつもりだったけど、そんなの、他の情報がなければ、あったかいかつめたいかしかわかんないよ。僕だって、あの違法建築のニュースを聞いたとき、根拠もとくにないのに、「同じようなことをやってる人たちは、たくさんいるのだろうな」と思ったのだから、医療ミスとかに対して、その業界外の人が思うことだって、そういう感じなのだと思う。だからこそ、内部から発信することって、それが「同業者贔屓」だとか叩かれたりしても、大事なのではないかな。主張の違いなんて、本当は単なる立ち位置の違いでしかないのかもしれない。でも僕はここから動けない。「自分は客観的」とか声高に主張するうさんくささに、そろそろみんな気づけよ。

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