琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

日記における「真実」と「嘘」

http://www.enpitu.ne.jp/usr10/bin/day?id=103512&pg=20060203

 そういえば、WEB上には、純粋な「(日常)日記」というのは、ずいぶん減ってしまったように思える。あるいは、そんな他人の「日常」なんて、読んでも面白くないので誰も読まなくなってしまっただけなのだろうか。
 僕も以前、自分が書いた日記の内容に関して、「どうして、一緒にごはんを食べたのに、そのあと何もしなかったのですか?」というようなコメントをいただいて、それに対して、次のように返事をしたことがある。「僕は自分の『日記』に嘘は書いていません。でも、書くことによって誰かを傷つけてしまったり、自分が不利を被ってしまうような内容に関しては、『実際に起こったことを書かない』ことはあります」と。
 そもそも、「日記」というものに、起こったことをすべて書くことは物理的にも不可能だ。トイレで紙を使うところまでリアルに書かれても、ついていけるわけがない。そして、その「書けるもののなかで何を書くのか?」というのが書き手の価値観であり、技術の見せ所でもあるのだ。
 こうして公開されている文章というのは、書き手にとっては、「人に見られてもいい」あるいは、「他人からこういうふうに見てもらいたい」あるいは「どうしてもこれだけは言っておかなければならない」というものなのだ。いわゆる「非モテ」とか「童貞」とかをネタにしている人でも、本当に切実に「童貞であることの危機」を感じているわけではなく、自虐ネタとして(他人には)面白いだろう、ウケるだろうと感じているから、そう言っているからにすぎない。本当にモテなかったり、40過ぎで童貞であることを気に病んでいる人は、いちいちWEBにそんなことを書いたりしない(ただし、例外もなくはないが…)。いくら「日常日記」だと言っても、こうして文章にしている時点で、それは一種の「創作的な要素」を持っている、ということになる。
 僕はそれでも「日常日記」が好きだし、実は、WEBサイトというものが僕たちにもたらした大きな革命のひとつは、こういった「とくに有名ではない人たちの日常」を知ることができるようになったことではないかと考えているくらいだ。
 ただし、「すべてが書かれているわけではない」ということと、「書かれていることを信じない」というのは、全然別の話だと思う。
http://aozora.sub.jp/diary/rnote.php?u=diary/2006/01/20050120_1210.htm
↑を読んで僕は考えたのだが、「書かれていることなんて信用できない」「文字になっている部分からは、『人間性』なんて伝わってこない」と言うのであれば、そもそも、「読む」必要性なんて、どこにもないのではないだろうか。(註:書かれている内容を自分の都合のいいように解釈して、人格攻撃をするのとは話は別だからね。しかし、こんなことをわざわざ書かなければならないのは、全くもってバカバカしいな)
 「WEBサイト」というのは、基本的に「文章だけで構成された世界」であり、僕たちは、「文章で勝負するリング」に自らの意思で上がっているのだ。
 にもかかわらず、「リング上で繰り出される文章という名のパンチには、何の意味もない。そんなのは人間の一面にすぎない」と言う人がいる。
 僕にはこのリングの上のことしかわからないし、「みんなの知らないところでは、ケンカがものすごく強いんです!」とか言われても、「そんな言い訳するくらいなら、リングの上でそのパンチを出してみろよ!」としか感じない。「WEB上でバカだと思われたくない」のなら、「WEB上でバカなことを書かなければいい」じゃないか。
 もちろん、全部のことなんてわからないに決まっているのだが、それでも、自分の中の「何か」を伝えたいから、こうして僕は書き続けているのだ。どんなに「書けない事実」が積み重なっていったとしても。傲慢かもしれないが、人間性を「評価」されるのはちょっと勘弁してもらいたいけど、これを書いている僕という人間のほんの一部でも、誰かに伝わってくれればいいなあ、と思っているのですよ。誤解されるリスクがあるというのは、わかっているんだけどさ。

しかし、小町さんが「怖い人」だと思われているのだったら、僕はもう「猛犬」みたいなものなのでは……
 

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