琥珀色の戯言

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東京タワー

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

 もう反則だよ「東京タワー」。だって、母親を題材にした小説で、リリーさんの叙情が籠められているのだから、泣けて当たり前です。大事な人を亡くした経験がある人は、必ず、この小説のなかに自分の「別離体験」を投影してしまうと思うのです。もちろん僕もそうでした。
 でも、その一方で、僕は泣きながら、ひとりの「息子」として、リリーさんに負けた…という気持ちになってしまったのです。この本にもそのあたりの逡巡は書いてあるけれど、いい年をした一人暮らしの男と母親が2人で「同居」している姿って、世間的には、必ずしも「自然な姿」ではないから。いや、何を生業にしているのか不明の「オトン」も含めて、この小説の世界というのは、筑豊や小倉の「ゴッドファーザー的」な「濃密な家族主義」を基盤にしていなかったら、成り立たなかったものだと思いますし。
 ああ、しかしそれは言い訳だな。僕は間違いなく自分の親に対してリリーさんみたいに誠実ではなかったし、愛情を素直に受け取ったりあげたりできなかったし、受けた恩を返せていないような気がしてなりません。なんだかね、読みながら、僕は自分の親をこんなに幸せにしてあげられなかったなあ、とか考えていたら、それでまた泣けてきた。女性はどうだかわからないのだけれど、親を失った男がこの小説を読んで流す涙は、半分が「感動」で、半分は「後悔」だと思います。正直僕は、自分の母親が100歳近くになって亡くなられて「かあちゃん死んじまった」とかいうような色紙を描いて配るような長渕剛的メンタリティは大嫌いなのですけど、リリーさんは、この話を自分のために書きたかったのだと思うし、過剰なまでの自分語りがそんなに気にならないのは、この作品はリリーさんの「本当に書きたかったこと」「書かなければならなかったこと」だったからだと感じます。いやしかし、この国にも、まだこんなに「家族的」な世界があったのだなあ。なんだか、僕たちが格好いいと思っている「個人主義」の世界って、本当に人間を幸せにしているのだろうか、とか、いろいろ考えさせられました。でも、今もし母親が生きていて家で料理作ったり洗濯してくれるという選択肢があったとしても、僕はそれを選ぶ勇気はないような気もします。もちろん、生き返ってはほしいですけど。
 とにかく僕は、リリーさんのお母さんは幸せだったのではないかなあ、と思いました。本当に「よく生き抜いた人」なのだと感じるのです。そして、自分が大事な人を幸せにできていなかったのではないか、と、溜息をつくのです。
 「肉親の死」という共通体験を描くのは、小説としては「反則」だと思うのだけれど、たぶんね、この小説の魅力は、「東京で生き抜いていたオカン」の描写なのでしょう。
 リリーさんが「東京タワー」で留めておきたかったのは、「生きているオカンの姿」だったと僕は感じていますし、そうであってほしいと思っているのです。

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