琥珀色の戯言

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「ミュンヘン」感想

http://www.munich.jp/

 もうすぐ上映も終わりそうだということで、かなり無理矢理時間を作って観に行ったのですが、結論から言えば、やっぱり観ておいてよかったです。3時間近い長尺だし眠かったので途中で寝てしまうんじゃないかと危惧していたのが嘘のようで、エンドロールを観ながら、「もう終わり?」と思ったくらいですから。
 この映画が抱えているテーマというのは、「復讐の連鎖は、新たな憎しみを増幅させていくだけではないのか?」というものだと僕は感じたのですが、実際にその「復讐者」として選抜されたアヴナー(エリック・バナ)たちの行動を映画のストーリーとともに追っていくと、その「実感」というのは非常に強く感じられます。彼らが「粛清」していく「テロリスト」たちの多くは、殺気をふりまいて歩いているような兇悪な連中ではなくて、少なくとも劇中に描かれている範囲では、「善良な市民」でしかないのです。そして、アヴナーたちのチームは、かれら「イスラエルの敵」を次々と抹殺していきます。
 まあ、正直なところ彼らは「テロの初心者」であり、観客としては、あんな杜撰な犯行で捕まらないほうがおかしいのではないか?と首を傾げたくもなるのですが、逆に、そういう「手馴れていないテロリストたち」の描写が、この映画をリアルにし、かつ、エンターテインメントにしているのかもしれません。テロにエンターテインメントも何もあったものではないのですが、スピルバーグという人の習性なのか、「ミュンヘン」は、「サスペンス映画」としても、かなり「面白い」作品なのです。ほんと、「これはいったいどうなるんだ…」というような緊張感溢れる場面も多いですし、胸が押しつぶされるような気分になりながらも、スクリーンから目が離せない。そして、多くの謎の人物が現れるのですが、結局アヴナーたち、そして観客にも、その「謎解き」がされることはありません。そういう状況がまた、主人公たちへの感情移入を強める効果をもたらしているのです。
 確かに、この作品を観ると、「テロに対して力で対抗すること」の虚しさがひしひしと伝わってきますし、テロリストもまた普通の人間なのだということがわかります。けっして「殺人マシーン」などではないわけです。でも、そんな普通の人間同士が、お互いの「正さ」を巡って殺しあっています。
 ただ、僕はこの作品をそういう「日本人としての視点」である程度客観的に観ることができるのですが、その一方で、それはあくまでも「他人の視点」なのではないかなあ、とも思うんですよね。劇中でもパレスチナのテロリストが「俺たちはとにかく祖国が欲しいんだ」と言っていましたが、「いや、国なんて無くても、平和共存すればいいんじゃない?」なんていうのは、僕が自分の国を生まれつき、何の疑問もなく持っている人間だからだと思うんですよね。同じように「テロの連鎖なんて虚しい」と「観察者」である僕は思えても、じゃあ、あの時代に生きて、自分の国のオリンピック選手たちが虐殺されたとき、「それでも、テロの応酬は虚しいだけだから、反撃するのは止そうよ」と言えるのか?あるいは、自分の家族や友人がああいうテロの犠牲になっても、「歴史的観点からみて…」なんて偉そうに語れるのか?とも感じるのです。いや、逆に国家の上層部のレベルでいえば、ああいうテロの応酬って、ある種の「予定調和的」ですらあるのかもしれませんが。どこかでこの連鎖が断ち切れればいいのだろうけれど、その「現場」に近ければ近いほど、自分の側から断ち切るというのは、とても難しいことだと思います。そして、偉いひとたちというのは、そういう前線の人々の気持ちをうまくコントロールしてこの世界を動かしているのではないかと。
 「急造テロリストの悲哀」を描いたこの映画を観ながら、「では、死刑執行人が精神的にやりきれないから、死刑は廃止したほうがいいのか?」とか、僕は考えてしまうのです。死刑執行人は、個人的には何の恨みもない人を「執行」するわけですから、より罪の意識は大きいのかもしれませんが。
 この映画を観て、僕は「世界からテロや争いが無くなることなんて、ありえないんじゃないのか?」という気持ちになりました。そして、スピルバーグ監督も、「争いの連鎖」に虚しさを表明しつつも、その解決策はいまだ見出せていないのでしょう。「ミュンヘン」は、これを観て、誰かその方法を考えてくれないか?というスピルバーグの祈りなのかもしれません。

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