琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

松永英明さんが元オウム信者だった、ということについて

http://www.sv15.com/diary/matunaga.htm
ことの経緯は、↑を読んでいただければだいたいお分かりいただけると思うのですが(まあ、考えてみれば、まったく今までこの件に興味がない人にたいして「おわかりいただく」必要なんてないのかもしれないけど)、超有名アルファブロガーである松永さんが元オウム信者であり、オウム真理教の広報活動に一役(どころじゃないか)かっていた人であったということで、ブログ界の一部に激震が走っています。で、このことについて、このことが明らかになってから少し時間が経って、僕が今考えていることをつらつら書いていこうと思います。

 僕は「絵文録ことのは」をよく読んでいたけれど、実際のところは、「話題になった記事はほとんど欠かさずに」という感じでした。「ことのは」は、けっこう長い文章であることが多かったので、全部読むのはけっこう大変だったしね。
松永さんが元オウムの人だったと知ったときの最初の印象は、「だから何?」というものでした。正直、僕はずっと田舎で暮らしていて、オウム真理教とのリアルな接点はほとんどなく(でも、大学の同級生が1人、失恋を契機にオウムに入信して、いまだに行方不明です)、オウム真理教が行ったさまざまな「反社会的行為」に対して危機感と憤りを覚えていたのと同時に、あぐらをかいて飛び上がる「空中浮遊」とか「しょーこーしょーこー」の歌とか(あれはしかし、「しょうこ」ちゃんがかわいそうだったな)をネタにしてケラケラ哂ったりもしていたのです。
もちろん、「オウムは怖い」と思うし、僕自身近寄りたくない存在ですが、その一方で、

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

↑の本で村上春樹さんがインタビューされていたように、オウムの信者の多くは、「少しだけ現実世界に適応できなかった普通の人たち」でしかなくて、それは、僕がオウム信者になっていてもおかしくなかった、ということでもあると考えています。でも、だからといって、「若気の過ち」ということで、地下鉄にサリンを撒いて多くの人びとの生命を未来と奪ったことが許容されるわけでもないでしょう。人は「自分がやったこと」に対する責任を負うべきだと思うし。
 しかしながら、その一方で、「僕自身は、別にオウムの直接被害には遭ってないからなあ」というような「実感のなさ」を抱えているのも事実です。妙な話なのですが、全く面識のないサリン事件の被害者の方々よりも、こうしてブログを読んでいる松永さんのほうを僕は「よく知っていて」、こんなふうに責められていることに対して、「それは過去のことなんだから…」という気持ちもわいてくるのです。
 じゃあ、ゲッベルスは自らの手を血に染めなかったからといって、ナチスがやった行為に対して責任がないのか?そんなわけないだろ!とも感じているのですが。
松永さんのオウム内でのポジションというのは、ナチスでのゲッベルスに似たものがあったわけだしね。そしてまあ、当事者でない僕たちは、ナチスの暴挙に憤りつつも、「ゲッベルスの宣伝戦略」とかに感心していたりもするわけです。「いや、人の心を掌握するテクニックとしては、学ぶべきところは多いよ」とか言いながら。
先日の「ミュンヘン」の感想の続きではありませんが、僕はパレスチナに歴史的な関係を持たない日本人であればこそ、パレスチナ問題に対して、お互いに仕返しを続けていても、何も変わらないじゃないか」という「正論」を述べることができます。でも、それは逆に言えば、僕が「当事者ではない」ということなんですよね。もちろん、当事者同士ではどうしようもない問題というのがあって、「仲裁」あるいは「調停者」が必要なことってたくさんあるのですけど、当事者には当事者にしかわからない「消しようがない感情」があるはずです。だから、どんなにジョン・レノンが歌っても、戦争はなくならない。
「客観的に言えば」赦されない罪なんてないのかもしれないし、そうやって過去の罪を騒ぎ立てることは、負の連鎖をもたらすだけなのかもしれません。そういう「正論」というのも、僕には理解できます。切実な当事者じゃないから。

 でも、僕がここで何を言ったところで、実際にオウム真理教の被害に遭った人たちは、そのプロパガンダに貢献していた松永さんを赦すことはできないと思うんですよ。「あのオウムの手下が、なにがアルファブロガーだ!」と憤っても当然でしょう。そんなの、当事者としての関連性が低い僕が「いや、彼は更正したんだから、許してあげてもいいんじゃないですか」と言っても、まさによけいなお世話だと思います。「更正したから赦されるのか?」と問われても、結局、万人に一致した「答え」なんて無いんですよね。個々の人間として、「赦す」か「赦せない」かということだけで。松永さんは刑事事件の被告ではないのだから、「判決」も出ませんし。だいたい、「宗教」というやつはみんな狂気を秘めているもので、信者が多くなってしまえば誰も何も言えなくなってしまうだけなのかもしれないし、逆に言えば、「何で人を殺してはいけないの?」と言われて答えに詰まってしまうような「絶対的無宗教」というのも、非常に危うい面を抱えているわけです。「宗教」があれば「神はそれをダメだと言っている」で済んでしまうことにまで「疑問を持つこと」を許容してしまう態度というのは、はたして社会を平和にし、人々を幸福にしているのかどうか、僕はときどきわからなくなります。そして、オウムに魅かれていった人たちも、たぶん、そういう「わからなくなってしまった人々」だったのかな、とも思うのです。でも、「だから許せる」というものでもないんですよね。彼らがやったことは、僕の家の前で立小便をしたなんてなまやさしいことではないわけだから。小便は乾いても、死んだ人は、もう帰ってはこないし、失われた時間は、もう取り戻せない。

 これから松永さんが書くものに関して、僕はやっぱり「元オウムの人」というフィルターをかけて読んでしまうだろうし、読む前には「騙されるな」と自分に言い聞かせてしまうと思います。松永さんは頭がすごく良い人だし、書かれているものも素晴らしいから、なおさら、ね。そして、僕の中には、「なーんだ、あんな凄い文章を書く人気ブロガーだったくせに、オウムなのかよ、ふーん」みたいな、くだらない優越感みたいなのがちょっとだけあるのも事実です。人というのは、自分が勝てない人のネガティブな面を見つけると、けっこういい気分になってしまうみたいで、それはそれで情けない話なのですが、僕は自分のなかにそんな一面を見つけて、少しだけ悲しくなりました。

 結局、僕の松永さんに対する態度は「保留」としか言いようがないもので、そこから一歩も動けないでいるのです。「過去の罪は赦されるのか?」という問いは、そのまま「じゃあ、お前は赦せるのか?」という問いとなって、僕に返ってくるのです。そして、僕はやっぱり、それほど寛容な人間ではないということを実感しています。
 僕は思います。松永さんにとって最大の「贖罪」って、「書かないこと」なんじゃないのかな、と。言葉で他人を操ろうとしたことを反省しているのなら、「沈黙」すべきではないか?と。
 松永さんは、たぶん、書くことが生きがいなのだろうし、それを捨てることはできなかったのだろうというのはわかります。でも、だからこそ僕は、松永さんがいまだに「言葉」を持っているということに対して、嫌悪感を抱かずにはいられないのです。

 
 なんだか、支離滅裂かつ感情的な文章を読ませてしまって、すみませんでした。

アクセスカウンター