琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

「ブログ文章術」って言うけどさ

ブログ文章術:一文を短くって言うけどさ
http://blog.excite.co.jp/blog-jutsu/1582135/

↑に書かれているのは「序章」の部分であって、これから「本論」がくると思われるのですが、面白かったので「課題」をちょっとやってみましょう。

お皿ひとつひとつに、それぞれ、ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切、いろとりどりに、美しく配合させて、手際よく並べて出すのであって、手数は要らず、経済だし、ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見えるのだ。

この文章を、「センテンスを分けて、読みやすくせよ」ということなのですが、
僕のこの課題に対する答えは、

 ハムや卵、パセリ、キャベツ、ほうれんそうなど、お台所に残って在るもの一切合切を、お皿ひとつひとつに、いろとりどりに美しく配合させて、手際よく並べて出す。手数は要らず、経済的。ちっともおいしくはないけれども、食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見えるのだ。

なるべく原文に忠実にやれば、まあ、こんな感じでしょうか。
たぶん、そんなにおかしな日本語ではないと思います。

ちなみに、注意したポイントというのは、
(1)「ひとつひとつに」「それぞれ」というのは、意味とリズムを考えればどちらかひとつを使えばいいはず。
(2)【手数は要らず、経済だし、ちっとも、おいしくはないけれども】という部分は、「ポジティブな内容」と「ネガティブな内容」が混在しているので、言いたいことがわかりにくくなっています。お互いの内容をわかりやすくするためには、文を分けるべき。
(3)この文章で訴えたいのは「ポジティブな面」なので、締めの文は、「××だけれども、○○」という、○○がプラスの印象を与えるような終わりかたのほうが良い。

これが「正解」だなんて、言うつもりはさらさらないんですけどね。


でも、ちょっと待って。
ここまで書いてみて、僕はふと考え込んでしまうのです。
この「整理された文章」って、実につまんないよなあ、と。

おとなの小論文教室。

おとなの小論文教室。

↑の本のなかに、こういう文章があるのです。

 以下は、著者が紹介されていた、画家の横尾忠則さんのデザイナー時代の「おはぎ」というエピソードです。

 日本デザインセンターでのぼくの暴力沙汰はもう一つあった。
 …いつも3時になると皆んなでおやつを買ってきて食べるのが半ば一日の慣習みたいになっていた。
 ある日ぼくが外出から帰ってきたら、
 部屋の中央の大きい作業机を囲んで
 全員でおはぎを食べている最中だった。
 ぼくはいいところへ帰ってきたと思い、
 早速舌なめずりしながら座に加わった。
 ところがぼくは人数に入っていなかったのか、ぼくの分がなかったのだ。
 ぼくがここにいる誰よりもおはぎが好きなのは周知のはずである。
 ぼくは完全に仲間外れにされたという疎外感に逆上してしまった。

 その時ぼくに対して不謹慎な笑みを浮かべたのが植松国臣だった。
 ぼくは一瞬生かしておけない奴だと思って、
 いきなり植松さんに飛びかかっていった。
 が、上手くスルリと身体をかわされ、ぼくは床に思いっきり叩きつけられる格好になってしまった。
 もうこうなったら全身の血は逆流、
 細胞の一つ一つが怒りの火の玉と化してしまった。
 眼から涙がワッと噴き出した。
 泣きながら何やら喚いているぼくの姿を見た彼は危険を察知したのか、
 真青になって廊下に飛び出してしまった。
 ぼくは獲物を追う野獣のように彼に飛びかかっていった。
 だけど通りがかった「日本鋼管」のチーフの木村恒久
 背後からがっちりと羽交い締めにされてしまった。
 あとでぼくと植松さんの喧嘩の原因を知った連中は
 皆んな大笑いしたようだが、
 ぼくにとっては
 これ以上の純粋行為はなかったのだ。
                   (『横尾忠則自伝』文藝春秋から抜粋)

 それで、この本の著者であるズーニー山田さんは、この文章に対して、
「じゃ、何が書いてあったか、極力短く! 一文で言ってみてください」
 という「課題」を出されます。

 ズーニーさんは、「ありがちな答え」として、

日本デザインセンターでの暴力行為は、ぼくにとってはこれ以上ない純粋行為だった。

 というのを挙げておられますが、僕も同じ問いを試験問題として出されたら、おそらく、「日本デザインセンターでの(おはぎをめぐる)暴力行為は」と少し付け加えるくらいの解答をすると思います。

 でも、ズーニーさんはこの文章から、【「自分の中からわきあがってくる印象に忠実である」という芸術家の覚悟を感じ】て、

 僕は、人から笑われようと、子どものような純粋さで衝動に突き動かされる瞬間こそ尊いと思う。

 という一文にまとめられているのです。

 ちなみに、この文章を読んだ糸井重里さんは、こんなふうに要約されたそうです。

 ぼくはおはぎが好きだ!

 これを読んだ僕は、思わず手を打って喜んだわけです。ああ、さすがは糸井さんだなあ!って。
 でも、今になって冷静に考えてみると、ちょっと違和感があるんですよね。

 「ぼくはおはぎが好きだ!」って、本当に「要約」なのでしょうか?

 率直に言うと、これって、「要約」ではないと僕は思うんですよね。もちろん、この文章から、横尾さんの「おはぎ愛」は痛いほど伝わってくるのですが(というか、こんなエピソード、よく記憶していたなあ、と)、これを「おはぎが好きだ!」にしてしまうのって、かなり「偏った約しかた」だとしか言いようがありません。
 それでも、多くの人は、この糸井さんの「言葉の力」に惹きつけられるのです。それはもう、要約として「正しい」とか「正しくない」とか、そういう問題ではないんですよね。

 要するに、読者は、「日本語として正しい文章」を読みたいわけではないのです。
 より「心に響く文章」「自分にインパクトを与えてくれる文章」を求めて、僕らは旅をしているのですから。
 もちろん、日本語として崩壊しているくらい読みにくかったら誰も読んではくれないのでしょうが、「正しいだけの文章」「巧いだけの文章」では、誰もブックマークしてくれないのですよ。
 じゃあ、どうしれば「心に響く文章」を書けるのか?というのは、ものすごく難しい問題ですし、僕も試行錯誤しながら、いつも暗澹たる気持ちになってしまいます。
 そういうのは、鍛えようのない「センス」なんだろうなあ、と考えると、本当に自分の才能のなさが恨めしい。

 id:kowagariさんがhttp://d.hatena.ne.jp/kowagari/20060404/1144136960で紹介されている人たちの最初の「課題」に対する解答なんてのを見ていると、実は「一文を短くすること」になんて、そんなに意味はないのかもしれないなあ、と僕は思います。
 いちばん大事なのは、文章術を駆使して「どう書くか?」ではなくて、「何を書くか」というのと、「何かを書きたい」というパッションなんだよ!というのは、あまりに短絡的な結論なのかもしれないけど、そんなに的外れな答えではないはずです。


 附記:ちなみに、僕は文章上のテクニックを全否定しているわけではないので念のため。人に読んでもらうためには、テクニックがあるに越したことはないのは事実です。でも、それはあくまでも「従属因子」にすぎないのです。

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