琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

RE:RE:「インターネット人類補完計画」の果てに

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20060330

↑のエントリのコメント欄やトラックバックを読むと、物事というのは、なかなかうまく伝わってくれまいものだなあ、とあらためて感じる。ネットは僕を「救えなかった」と書いているのであって、ネットは「つまらない」と書いたわけではないのだが。いやむしろ、ATフィールド全開でぶつかり合うようなネットのほうが、単純に「娯楽としては面白い」のではないかと思いますよ。

 それで、僕が考えさせられたのが、このコメント欄(http://d.hatena.ne.jp/fujipon/comment?date=20060330#c)でモアレさんという方が書かれているコメントで、まあ、最初に読んだときには、「はいはい、あー説教うぜー僕だってこう見えても自活している社会人なんだけどさ」という感じだったんですよ本当に。でも、ちょうど昨日のエントリで取り上げた、
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20060410#p2
↑の「小説の役目」というのとあわせて考えてみると、けっこういろいろと思うところがあって。

 要するに「現実で居場所がなく、ネットに依存ばかりしているから、ネットで自分を否定されてしまうと自分を全否定されたような気になって落ち込むんでしょ?」ということのようなのですが(って、これも根本的に「インターネット人類補完計画」に関しては、「読めてない感想」なんだけどさ本当は)、実際のところ、世間の人たちは、そんなに現実世界に確実な「自分の居場所」があったり、「他の事で自分を持って」いたりするのだろうか?正直、僕にはわからないというか、そんな簡単なものじゃないような気がしてならないんですよ。
 そもそも、「普通の人間」の娯楽ってさ、ゲームで遊ぶことも、CD聴くことも、映画を観ることも、スポーツ中継に熱中することも、みんな「フィクションへの自分の投影」じゃないのかなあ。スポーツはリアルだろ?って言うかもしれないけれど、少なくとも自分でプレーしていない人間にとっての、テレビの向こうのスポーツっていうのは、やっぱり「フィクション」だと僕は思います。
 だから、「自分を証明する場所がネットで意見を表明する時だけ存在する」なんて言うけどさ、こういう現象って、別にネットの専売特許ではないんですよね実際。
 宗教なんてまさにそうだし、もっと身近なところでは、プロ野球やJリーグのファンのコミュニティだってそう。芸能人のファンクラブなんていうのも、「自分を証明する場所」のひとつなんですよね。でも、そんなふうにいろんなところを彷徨ってみても、「自分の居場所」が見つからなくて困っている人というのは、たくさんいるのです。オウム真理教の信者のなかには、少なからず、「いろんな新興宗教に入信してはやめて、を繰り返した末に」オウムに入った人がいる(いた)そうです。どんな水でも癒せない渇きを持った人っていうのは、やっぱりいるんですよ。
「ほかのことで自分を持てる」なんて人は、ネットに居場所を求めたりしないはずです。あるいは、ネットもその「たくさんの居場所」のうちのひとつにできるでしょう。そもそも「居場所」なんて、主観的な認識でしかないのだから、どこにもないのかもしれないし、どこにでもあるのかもしれない。
 少なくとも、僕には生きていく上で「余裕」なんて全然ないんですよ本当に。そして、ネットにだって僕の安住の地はないような気がしています。でもたぶんそれは、僕だけじゃなくて、多くの人がそうなんだと思う。
「揚げ足取りや俺様主張は神経質で陰険なオタクっぽい人達の間の事だけでしょ。」そうであって欲しいと思うけど、実は全然そんなことはなくて、外観上普通の学生だったり会社員だったりしている人が、家に帰って「疲れた……」と鞄を投げ出して、「揚げ足取り」や「俺様主張」をやっているのだと僕は感じていますし、それはどちらかというと、「病んでいる」というよりは、「ガス抜き」に近いものではないかと思うのです。

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20060410#p2
↑の村上春樹さんの文章を読んで、僕はまさに「ネットも『物語』のひとつでしかないのだ」と感じました。正確には、「ネット上のコンテンツも」と言うべきでしょうが。
正直、「他の事で自分を持っていたら」なんて宣言できる人が、僕は羨ましくて仕方がないのです。「物語」に頼らないと、足元が不安定で生きていけない人間なので。
でも、その一方で、「その場所は、本当に『約束された場所』なの?」と、つい考えてしまうんですよね。
あなたが持っている「自分の場所」は、信者たちにとっての「オウム真理教」と同じような性質のものではないとは限らないし、オウムというのはまさに、「過信していた少数の人々」が、「居場所がなかった多くの人々」に与えた「偽りの物語」だったのではないかと、僕には思えて仕方が無いのです。


うーん、読み返してみたら、このエントリそのものが「インターネット人類補完計画」とはあんまり関係ないですね、すみません。

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