琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

サイトを「閉鎖」するという経験

「Blog向上委員会」の「閉鎖」
http://mizunohosi.jugem.jp/?eid=172

 僕も以前やっていたサイトを「閉鎖」したことがあるのですが、結局閉鎖は長続きしませんでした。なんだか落ち着かないんですよ本当に。そして、その経験から学んだことは、「普段はそんなにリアクションはなくても、ちゃんと読んでくれている人はいるのだ」ということと、結局、「サイトの更新に追われるのが嫌になったから」という理由で閉鎖しても、それが無くなったらけっこう寂しいものなのだ、ということでした。サイトなんて無ければ無いで死ぬわけでもないし、そもそも、こういう形で個人が書いたものをそれなりの数の人が読んでくれるなんていう状況が未来永劫続くわけもないのだろうな、とは思うのですけど。

 例えば朝起きて、今は夏休みだけど、学校に行って、学校に行っている間もブログのネタを無意識の内に探しているような気がして、ネットを開けばRSSに登録されているブログ論を片っ端から読んで、はてブを巡回する。そんな日々の繰り返し。言ってみれば「自分の生活をよりシンプルに」、という意識。ブログがあることでその生活が若干複雑になり、また雑多になっていた気がする。もともと飽き性だけど、こんな雑多な生活はいつまでも続けていけないし、時間に余裕があるなら自分の好きな事をしたい。その自分の好きな事から「ブログ」が外れてしまったのだ。「ブログ」というよりは「ブログ論」なのだろう、きっと。

 こういう心境というのは、サイトをずっとやってきている人間にとっては、すごく身近なものではないかと感じます。僕がサイトをやめたくなるのも、「結局、サイトを更新するためのネタ探しのための人生」になってしまうのではないか?」と不安になるときなのです。先日、熊田曜子に似ているという「放火魔ブロガー」が逮捕されましたし、その前には、「身内で毒物を実験」して、それをブログで公開していた女の子もいました。こういう「表現する場所」には非常に怖い面があって、自分で卵から育ててきた「魔物」に、いつのまにか自分が支配されているという危険があるような気がします。彼らは、ブログをやっていなければ、あんなことはやらなかったのかもしれない。
 以前「不倫ブログ」が流行っていた時期に、その類のものを僕が読んでいて感じていたのは、「この人たちは、自分を物語の主人公にしてしまっているのではないか?」ということでした。もちろん、人間というのは、常に人生において「自分が主役」なのですが、社会という大きな枠組みのなかでは、「脇役」であることを受け入れなければならいことがほとんどです。しかしながら、個人サイトやブログというのは、それを支援し、共感し、自分を褒め称えてくれるほんの少しの人々さえいれば、「自分を神だと錯覚させる場所」になりえるのです。現実は「ドロドロの不倫」でも、ディスプレイの上では「純愛」になりうる。そして、そのフィクションに、当事者のほうが引きずられてしまう。
 たぶん、僕も含めた大部分の人にとっては、「ガス抜き」程度の場所なのだけれども。
 でも、そんな「ガス抜き」程度の僕も、実生活でささいな不幸なことに対して「日記のネタにできるな」というような感情を抱いて愕然とすることがあります。あまりに「書くこと」に入れ込みすぎると、自分自身ですら「ネタを生み出す題材」になってしまうのです。自分の身に起こった嫌なことや悲しいことは、みんなに聞いてもらえば癒されるような気分になります。しかしながら、それは「問題の解決」にはならないことがほとんどです。そして、日頃読む本や観るテレビ・映画なども「話題になりそうなもの」「話題にできそうなもの」寄りになってきているのも感じます。ネットをやるまでは、僕はこんなに現代小説は読んでいませんでしたし(本当は、歴史モノとかノンフィクションのほうが好き(だったはず)なのです)。

 ただ、一度やめてみて思ったのは、「なんのかんの言っても、自分にとって楽しかったから続けていたのだな」ということでした。もちろん嫌なことも悲しいこともたくさんあったけれど、やっぱり「楽しかった」のだなあ、って。
 僕は「自分」というのを他人にアピールすることが苦手な人間で、めんどくさがりです。でも、「死んでしまう前に、何かを遺したい」というような強迫観念をずっと持ち続けていました。
 仕事はあまり僕に向いていないと感じることも多いのですが、なんとか10年間、大過なく(大功もなく、ですが)やってきたのですが、残念ながら医療の仕事というのは、ごく一部の研究職や先端医療にかかわる人間以外にとっては、「過去の事例に照らし合わせて、そのなかで最も妥当な方法を選択する」という仕事です。至極当然の話なのですが、「自分で新しい治療法を創造する」ことに夢中な一臨床医なんていうのは、単なる「危険なマッドサイエンティスト」という誹りを免れないでしょう。
 そんななか、仕事の合間にでも「発信」できるというこの趣味は、僕にとって、ひとつの心のよりどころでもあったわけです。「こんなつまらないものに依存するなんて」と仰る向きもあるでしょうが、それによって気分転換になったり、自分のことを見直したりできたおかげで、僕自身の「客観性」というのは、かろうじてキープされているようにも思えるのです。
 1時間あれば、テレビドラマを観たい人もいれば、飲みに行きたい人もいるはず。そして僕は、セックスするより更新したい人間なのです。まあ、生物として負けている感があるのは否めませんが。
 「サイトなんてやめて、日常に戻ろう」と思うこと、今でもときどきあります。
 でも、サイトを更新するというのは、今の僕にとっては、「日常を乗り切るためのエネルギー補給」になっているんですよね。
 わけのわからない他人とか新興宗教に支配されているよりは、あるいは酒びたりになるよりは、サイト依存のほうがはるかに「健康的」なのではないか、などと開き直ってみたり。
 先ほどの「本の趣味」の話にしても、「感想を書くため」でも実際に面白い本もたくさん読めましたしね。「趣味じゃない本を読まされた」と思うよりは、「趣味が広がった」というふうに考えてもいいんじゃないかな。
 僕だって、自分の人生が変わっていけば、サイトへのスタンスも変わってくると思うし、それでいいと今は考えています。
 本当に嫌になったらやめるだろうし、またやりたくなったら、戻ってくればいい。
 「閉鎖」することによって、はじめてわかることも、たくさんあるはずだから。


 ところで、以下は余談なのですが、「閉鎖宣言」ができるサイトって、「引退」できる野球選手みたいなもので、それなりに成功をおさめたところの「特権」なのかもしれませんね。
http://d.hatena.ne.jp/I11/20060622/p3
↑にあるように、「普通に終わっていくサイト」というのは、自然消滅していく場合がほとんどなのだから。

 新しく「誰も読みに来てくれないサイト」というのを1から立ち上げてみると、それが本当に辛いことだというのがよくわかります。それなりに「読まれている」ことに慣れていればなおさら。僕は、同じ人間が同じことを書いているのに、ここまで誰も相手にしてくれないのか!と愕然としました。確かに、飽きたりめんどくさくなったりすることもあるけれど、それなりの数の人が読みに来てくれる「場」を持っているというのは、プレッシャーであると同時に、実は、ものすごい「特権」なんですよね。

 これと全く同じ内容のものを、今日立ち上げたばかりのブログに書いても、たぶん、10人も読んでくれないだろうから。

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