琥珀色の戯言

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佐々木恭子アナと「履修不足問題」

ともに毎日新聞の記事です。

 政府は30日、高校の履修不足問題に関する救済措置で、補修を課す上限を70コマ(1コマは50分授業1回)とする方向で調整に入った。70コマを超える履修不足は、レポート提出などで代替する案が浮上している。31日にも公表するが、公明党はさらなる負担軽減を求めており、調整が難航する可能性もある。

 高校の履修単位不足問題で、埼玉県狭山市の私立西武学園文理高校が、オーストラリアへの修学旅行参加で、必修の「世界史B」を履修済みとしていたことが分かった。04年度から同様の措置が取られていたという。県学事課から「無理がある」と指摘を受け、同校は補習などの対策を検討する。

 今朝の「とくダネ!」のオープニングトークで、この「履修不足問題」が取り上げられていて、佐々木恭子アナウンサーが、「でも、世界史を勉強するっていうのは、やっぱり大事なことですよね。受験だけが『勉強』じゃないんだし」とコメントしていました。僕はそれを観ながら、「でもアンタ東大卒だろ…」と学歴コンプレックスを暴発させていたわけなのですが。
 僕は歴史は大好き&大得意で、寮の「学習時間」に「勉強」と称して「世界史資料集」とかを読み漁っていたくらいなので、みんなが歴史を学んでもらいたいなあ、という気持ちはすごくあるのですけど、もしこの「履修不足問題」が、僕が蛇蝎の如く嫌っている「体育」とか「微分積分」とかだったら、頼むから補修とか勘弁してくれ、と泣いてお願いするに違いありません。「体育70コマ補習」とか、「100キロマラソン」と「夜のピクニック」を足しても追いつかない……
 しかし、この「履修不足問題」に関してなのですが、結局これを議論して「勉強してないなんてけしからん!」と言っている人たちは、「もう履修しなくて良い人たち」であって、当事者の高校生たちは「卒業できるのかどうか不安」なだけで、「世界を学びたかった!」なんて言う人はほとんどいないみたいなんですよね。
 で、今から70コマ補習をしたとして、教壇で先生が喋っているだけで、生徒たちは各自受験科目を「内職」している、という世界が繰り広げられるのは目に見えているわけで(っていうか、1年分の授業を一度にやらされ、しかも生徒たちは誰もまともに聞いてはいないという状況に置かれる教科担当の先生たちは、正直かわいそう)、「試験をやる」とはいってもたぶんそれで単位を落とさせるわけにはいかないでしょうし、それでも形だけの補修をやることに意味があるのか、というのはかなり疑問です。とはいえ、これをあまりに大目にみすぎると、「やったもの勝ち」になってしまうでしょうし……
 ただ、ずっと前から、「進学校」というのは、こういうルールのギリギリのところをついて少しでも効率的に「受験勉強」をやらせようとしてきた学校が大部分でした。中高一貫教育の進学校なんて、高校2年が終わるころには、高校の内容はほとんど終わっちゃってますしね。そういうのは、「全部ノルマはこなしているからOK」なのか?とか考えると、それはそれで疑問ではあるのですが。まあ、学校側だってギリギリのところで試行錯誤し、悩んでいるのでしょうね。それこそ「型どおり」に全部受けさせるのが一番ラクに決まっているのだから。

 でもほんと、穿った見方をすれば「受験がそんなに大事なのか」ってメディアでコメントしている有識者のほとんどが、いわゆる受験戦争の「勝ち組」で有名大学とかを出ている人たちであり、彼らの多くは、「進学校の恩恵」を多少なりとも受けているんですよね。「受験だけが勉強じゃない」と言い切れるのは、やっぱり「受験で負けなかった人たち」の特権であるような気がするし、いままさに受験を控えている「現場」としては、なんとか少しでもアドバンテージを得たい、そのために「オーストラリア旅行で単位認定」なんてことを自分たちでもバカバカしいと思いながらやっているに違いないのです。
 にもかかわらず、学校は、「もう受験しなくていい勝ち組」からは、「余裕がない」とたしなめられ、「受験なんて関係ない人たち」からは、「そこまでして受験勉強が大事なのか!」と蔑まれる。
 いや、今の僕にとっては、「受験勉強」なんてどうでもいいことなんだけれど、思い出してみれば、僕の人生において、「受験の結果がすべて」のように感じられた時代が確実にあったのは事実なんですよね。そしてそれは、今の「受験生」にとっても、同じことだと思います。
 所詮「金があったからって幸せとは限らない」と語れるのは「お金がある人の特権」なんだよなあ。

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