琥珀色の戯言

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『奇跡の人』をめぐる物語

それで、今回あらためて知った『奇跡の人』をめぐる物語をいくつか引用させていただきます(公演パンフレットより)

翻訳者・常田景子さんの「『奇跡の人』を訳して」より。

 そもそも『奇跡の人』の英語の題名”THE MIRACLE WORKER”というのは、直訳すると「奇跡を起こす人」という意味で、アニー・サリヴァンのことなのだ。


「血を越えた絆・人生を共に歩んだアニーとヘレン、二人の足跡」より。

 マサチューセッツ州に住む貧しいアイルランド移民の家庭に生まれたアニー(サリヴァン先生)は、8歳で母親を亡くし、働かず酒浸りの父のため弟ジミーと共に救貧院で幼少期を過ごす。ジミーとは救貧院で死別し、もう1人の妹も別の親戚に引き取られて別れ別れに。アニーの失明は5歳の時に罹った目の病気トラコーマが原因だ。そんなどん底の状況でも彼女は諦めず、救貧院に視察に来た福祉委員長に「勉強したい」と直訴。14歳でパーキンス盲学校へと入学する。
 他の生徒よりも年長なのにろくに読み書きも出来ないアニーは、劣等感から教師に対して反抗的で、騒ぎを起こしては何度も放校されかかる。けれど持ち前の負けん気で最後には誰よりも優秀な成績を残し、また在学中の9度にわたる手術で視力も取り戻した。

 (ヘレンの)大学卒業後も二人三脚の生活は続く。パートナーは1人増え、ヘレンの自伝執筆に協力した編集者ジョン・メーシーがアニーと結婚し、3人での新生活へと変わってはいたが。彼らの生活はけっして楽ではなく、裕福な著名人からの寄付が大きな支えだった。収入を得るのは切実な問題で、学生時代に発声法を学び何とか会話出来るようになっていたヘレンは、執筆に加え各地を講演して回るようにもなる。旅から旅への生活は体力・精神的にも辛いもので、当初は強い絆で結ばれていたジョンも、全てにおいてヘレン優先の生活が耐えられなくなり、アニーは悲しい別離を経験する。

 ヘレンは自身の活動を社会問題や政治の領域に広げて展開していく。社会主義を唱え、夫人参政権、労働者の地位向上、死刑廃止などの思想を支持。保守的な家族や、富裕層に多かったヘレンの支持者はこぞって彼女の行動を批判したが、意志の強い彼女もアニーも、自分の信念に忠実だった。だが1924年、アメリカ盲人協会の仕事に従事するようになって以降は、より幅広い人に活動を支援してもらえるよう配慮してか、先鋭的な思想や発言を公衆の面前で披露することは少なくなっていく。

 第二次世界大戦後の1948年の(日本)訪問では、広島・長崎も訪ねた。悲劇の大きさに最後まで訪問を迷ったが、来日の際には、自らも被爆しながら人々の治療に務めた永井隆博士の病床を見舞い、繰り返し謝罪の言葉を口にしたという。


「ヘレンを支えた著名人」

 グラハム・ベル博士は電話の発明者としての名声が高いが、一方では自身の母が難聴だったことから聾唖者教育にも力を注ぎ、ヘレンやアニーにとっては亡くなるまで良き相談相手となった。また、『トム・ソーヤの冒険』で知られる作家マーク・トウェインもヘレンの良き理解者。手紙のやりとりはもちろん、ヘレンが自伝を出版した際には絶賛の書評を寄せ、「19世紀でもっとも興味のある人物はナポレオンとヘレン・ケラーだ」と言ったとされる。

ヘレン・ケラーサリヴァン先生、そしてその周囲の世界には、僕が子供の頃「偉人の伝記」で読んだような美しいエピソードばかりがあったわけではなくて、現実にはさまざまなドロドロとした愛憎劇やヘレンに対する批判もあったようです。
僕のサリヴァン先生のイメージというのは、『アルプスの少女ハイジ』のロッテンマイヤーさんを優しくしたような感じだったのですけど、実際のサリヴァン先生は、「聖職者的な教育者」というわけではなくて、ヘレンに接するまでは教育者としての経験も皆無だったそうです。そして、サリヴァン先生は、「この仕事を失ったら、他の仕事なんてそう簡単には見つからない」という、後が無い状況で、ヘレンの家庭教師として赴任してきたのです。当時は、「救貧院出身で、身寄りもなく、目も不自由な女性」が職を得て自活していくのは、本当に厳しい時代だったようですし。
それにしても「自分では知っているつもりの『偉人』の生涯」というのも、大人になってあらためて調べてみるとこんなに知らないことだらけなんですよね。人というのは、本当に他人の一面だけしか見ずに、「わかったような気になっている」ものだと、あらためて思い知らされました。

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