琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

新・ある中堅サイトの光芒(3)

新・ある中堅サイトの光芒(1)
新・ある中堅サイトの光芒(2)

↑の(1)(2)の続きです。

<第2章>『活字中毒。』と『Doctor's Ink』

 まだ第1回からのログが全部残っているのだけれども、『活字中毒。』を書きはじめたのは、2002年の1月1日だった。
 お正月だから、ということで書き始めたわけではなくて、せっかくの正月なのに出かける場所もなく、『プロジェクトF』も閑散としていたので、偶然お正月スタートになっただけだ。そもそも、そんなに気合を入れてはじめた企画ではなかったし。
 なかなかサイトに来てくれる人が増えず(この頃はユニークアクセスが30人いればすごく喜んでいた記憶がある)、なんらかの形での「テコ入れ」が必要だと考えていたのだが、正直、何をどうやっていいのかわからなかった。当時の『プロF』のコンテンツは日記と「ゲームミュージアム」(昔のゲームについて個人的な思い出を語りちらすコーナー)が10話くらい、そうそう「旅行記」なんていうのもあったな、あとは掲示板くらいのもので、今から考えれば「あれで客を呼ぼうなんて甘すぎる!」というシロモノだったのだけれども、まあ、こういうのって管理人の贔屓目ってやつで、当時は「なんでこんなに誰にも見向きもされないのかなあ……」と真剣に悩んでみたりもしたのだ。当時は「インターネット雑誌」というのが「Yahoo!!」の他にも「あちゃら」などたくさん出ていた時代で、そういった雑誌を見て、『一発太郎』に登録してみたり、いろんな「アクセスアップサイト」を読み、「アクセスランキング」に登録したりもしてみたのだが、それもことごとく不発だったし。
 『活字中毒。』というのは、初回(初期は本当に「読書日記」のつもりだったので、日付をタイトルにしていたのです)を読めばわかっていただけると思うのだけど、筒井康隆さんの「腹立半分日記」みたいなやつをサラリと書いてみたいなあ、と思いながらはじめたのだ。でも、書いているうちに、「読んだ本のなかから、印象的なフレーズを抜き出す」という作業がけっこう楽しくなってきて、その「抜き出す」内容も、どんどん長くなってしまった。だから、今のスタイルというのは、最初に想定していたものとは、かなり違ってしまっている。そもそも、「引用」としては限りなく黒寄りのグレーゾーンでもあるし。
 ちょっと話を先に進めすぎたみたいなので、「活字中毒。」を始めた頃に戻る。
 あの時代は、それまでの「WEB日記」の主流であった『さるさる日記』の覇権がちょうど揺らぎ始めてきた時期で、「自分でHTMLを組めない人、ホームページビルダーが使いこなせない人でも運営可能で、しかも『外向きの繋がり』が持てるレンタル日記」が、雨後のタケノコのように乱立しはじめた時代だった。
 そういえば、『活字中毒。(今は『活字中毒R。』)は、まず企画ありきではなくて、流行りの『エンピツ』というレンタル日記を借りたので、そこで何かできないかと思ってはじめたものだったんだよなあ。そもそも『活字中毒。』というベタでありきたりのタイトルこそが、当時の僕のこの新コンテンツへの期待の薄さを物語っている。たしか「良いタイトルが思い浮かぶまでの仮タイトル」のつもりだったのではなかろうか。いままで「当直日誌」で使ってきた『さるさる日記』には「1日のアクセス数」を見ることと、読んだ人からの「メールを送る」という機能くらいしかなく、自分のホームページ内のコンテンツとして利用するのでもないかぎり、「ただパソコンに向かって日記を書き続けるだけの作業」に終わってしまうことがほとんどだった。
 それに比べて、最初に『エンピツ』を体験したときには、「世の中にはこんなにすごい日記サービスがあるんだ!」と感動してしまった。アクセス解析ではリンク先のアドレスがアクセス数の順番に表示され、「どこからどれだけの人が来ているのか」が一目でわかるし、自分のお気に入りの日記と登録したり、相手から登録されたりすることによって繋がれる「My登録」というシステムも新鮮だった。ただ、この「My登録」に関しては、僕のほうは「ちょっと気になるからしばらく追っかけてみようかな」というような軽い気持ちで登録した人から、わざわざ「My登録ありがとうございます!」なんていうメールが来たりして、そういう「意識の違い」に困惑することも多かったけれど。

 そして、『エンピツ』で『活字中毒。』を書き始めるのと同時期に、僕は「たくさんの人に読んでもらうための企業努力」をやっていたのだが、正直なところ、いろんな「宣伝サイト」「ランキングサイト」のなかで、僕にとって「ここからは間違いなく人が来てくれた」と言えるところは、
・日記才人
・テキスト庵
・Read Me!
の3つだけだったと思う。これらのサイトが今でも続いているというのは、何よりもその事実を証明しているのではないだろうか。
 なかでも『テキスト庵』は、僕のお気に入りだった。最初にここを見たときには、「なんて素っ気ないサイトなんだろう」と思ったものだったのだが、当時の『テキスト庵』は、まさに「テキスト書きたちの梁山泊」だったのだ。もちろん「玉石混合」であるのは今とそんなに変わりはないのだが、あの頃の『テキスト庵』には、高校の文芸部のような「ツマランものを書いて報告したら恥ずかしい」というような雰囲気が溢れていた。そして、全体の平均的なレベルも、そこらへんの「自己紹介と行間の長さだけが売りのサイト」ばかりの「ランキングサイト」に比べれば、はるかに高かったような気がする。
 僕はこの『テキスト庵』で、『活字中毒。』の更新報告を続けていくことにした。もちろん、更新報告するだけで、1日に何百人もの人が……というわけでもないけれど、確実に1日あたり10人前後の人を僕が書いたもののところに連れてきてくれる『テキスト庵』は、当時の僕にとっては、まさに「福の神」だったのだ。
 当時の『テキスト庵』には、「テキスト風聞帳」という、登録者が気になったテキストを紹介しあうというコンテンツがあった。
 『活字中毒。』がほんの少しブレイクしたのは、この「テキスト風聞帳」で、
2002年2月20日。
↑が、僕が書いたものとしては初めて他の人に取り上げられたのがひとつのキッカケだった。その日は、「風聞帳」経由で30〜40人くらいの人が来てくれて、それ以降も『テキスト庵』の「風聞帳」では何度も『活字中毒。』を取り上げてもらった。もともと「誰かが書いた(言った)気になる言葉」の引用からはじまっているテキストなので、たぶん、言及しやすい内容だった、という面もあったのだろう。
それまで自分が書いたものに対して「反応らしい反応」をもらったことがない僕は、アクセス数だけではなくて、「他の人に読まれ、言及される喜び」のようなものを感じるようになってきたのだ。その後も『テキスト庵』で知り合ったテキスト書きの人たちとは交流が続いている、「雑文祭」にも何度か参加させていただいた。もっとも、『テキスト庵』には僕にとって付き合いやすい人ばかりがいたわけではなく、何度かはバトルめいたことをやったり、ネガティブ言及されたりして落ち込んだりもしたのだが。
 そうそう、『テキスト庵』で僕が教わったことがもうひとつある。それは「タイトルのつけかた」だ。
「教わった」というより、「意識するようになった」と言うべきなのかもしれないが、実際に見ていただけば一目瞭然なのだが、『テキスト庵』というのは、「サイト名」+「一行の宣伝コピー」とう形式で「あたらしいテキスト」の「更新報告」が行われており、これは基本的にすべてのサイトに対して公平になっている。その中で、自分が書いたものを読んでもらうために工夫するポイントがあるとすれば、その「更新報告の内容」しかないわけで。これも、目の肥えた「テキスト書き」の人たちにとっては、あからさまなエロ更新報告はかえって敬遠されるし、その一方で、あまりに平凡な「今日の出来事」みたいなタイトルだと目にも留めてくれないしで、その「匙加減」というのはかなり微妙なものなのだ。僕は毎日ここで「更新報告」を繰り返し、それに対する「アクセス数」というリアクションを感じていくうちに、「アクセスしたくなるようなタイトルのつけかた」を学んだような気がするのだ。いや、もちろんこれは僕の主観であって、読んでいるあなたは「下手くそ!」と嘲笑っておられるかもしれませんが。
 「サイトのコンテンツは、テキトウに作ったものほど繁盛する」という風説があるのだが、それにしても、『活字中毒。』が、こんなに長く続いて、しかも、こんなに大勢の人に読まれるようになるとは、はじめたときには夢にも思わなかった。そして、5年あまりでこんなにもブログが流行って、昔はアクセスランキング入りするのに1日100カウントは必要だったはずの『エンピツ』が、こんなに斜陽になってしまうとも予想していなかったよなあ(ちなみに今は50カウントくらいあれば200位以内には入ります)。

 ところで、『テキスト庵』というのは、さきほど書いたように「高校の文芸部」みたいなもので、全体のレベルは高く、お互いに切磋琢磨しあっていても、そこにいる「部員」たちの数は限られている。つまり、「テキスト庵」でそれなりにメジャーになってしまったところで、「頭打ち」になってしまうのだ。そこで、僕はまた悩んでしまった。『テキスト庵』でどんなに頑張ってみても、『活字中毒。』は、1日に100人の壁を超えられなかったし、『プロジェクトF』も、50人前後をウロウロするばかりだった。

 そんな中、「新コンテンツ」として打ち出したのが『Doctor's Ink』だった。サイトをはじめたとき自分で決めていたことは、「あまり『医者属性』を打ち出したコンテンツを作るのはやめよう」ということだったのだが、ここまでサイト運営にハマってしまい、そして、ハマっているにもかかわらず、全く期待した通りの反応を得られない、という状況に置かれてしまうと、「何かやらなくては……」という焦りばかりを感じてしまう。そして、僕に書けそうなことといえば、あとは仕事の話しかないわけで。当時は、医療関係者のサイトそのものがそんなに多くはなく、そして、その中でも「オレは凄い医者なんだぜ!」という自慢話ではない、等身大の「普通の医者が日々感じていること」を書くというのをコンセプトにすることにした。いや、「コンセプト」とか言ってるけど、リアクションが無ければいつのまにか「なかったこと」にされていた可能性も大きかったのだけれども。
 この『Doctor's Ink』は、『活字中毒。』のような「目をつぶって振ったら大ホームラン!」というような幸運はもたらさなかったが、僕のサイトのひとつの「柱」として今でも続いている。

 こうして考えてみれば、僕にとって「それなりの成功」をもたらしたコンテンツであり、今の『いやしのつえ』の二本柱である『活字中毒R。』と『Doctor's Ink』は、いずれも「思いつき」や「行き当たりばったり」で始まったものなのだよなあ。あらためて振り返ってみると、本当に、サイト運営ってわからないよなあ、とつくづく思う。
 まあ、こんな感じで、2002年は過ぎていった。サイトに来てくれる人の数も徐々に増えてはいったのだが、それでもトータルで1日70〜80人、ユニークアクセスはその3分の2。『活字中毒。』も、『テキスト庵』界隈では少しは認知されたものの、そこから外へはなかなか広がっていかない状態。良く言えば「安定期」悪く言えば「停滞期」、そんな状況で、『プロジェクトF』は、2003年を迎えたのだった。
 『侍魂』や『ろじっくぱらだいす』は、「まだ遠い」どころか、どんどん遠ざかっていく一方で。

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