琥珀色の戯言

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生まれる森 ☆☆☆

生まれる森 (講談社文庫)

生まれる森 (講談社文庫)

恋人に別れを告げられた痛手から、自棄になっていた主人公の「わたし」。友だちの部屋を借り、期間限定の独り暮らしを始めたが、いつまでも失恋の記憶は拭えないままだった。そんな主人公に新たな風を送ってくれたのは、高校時代の同級生キクちゃんと、キクちゃんの家族だった。ガテン系の父、中学生の弟、そして主人公の悲しみを知ったうえでそれを受け止めてくれる兄の雪生。本当の家族のように親しくしてくれる一家に見守られ、終わった恋を整理しながら、次第に主人公は癒されていく。

 読み終えてみると、「ああ、『ナラタージュ』は、この作品のアナザーストーリーなんだろうな」というのがよくわかります。この『生まれる森』って、読んでいて「で、この小説って、何が言いたいの?」と感じてしまう作品ではありますが、「もやもやしたものをもやもやしたまま描いている」という意味では、『ナラタージュ』より僕は好きです。ドラマチックにするために人が死にまくったりしませんしね。まあ、ある意味「すごく古典的な若年妊娠小説でしかない」という気もしなくはないですが。
 島本さんは、相変わらず文章が上手いし、素晴らしい表現もたくさんちりばめられています。

 サイトウさんと一緒にいるようになってから、楽しいこともあったけれど、いつも洗い流せない疲れを心のどこかに感じていた。彼の離婚の理由は奥さんの心変わりで、彼女が出ていく間際に、あなたと一緒にいると疲れる、とサイトウさんに告げたという話を聞いたときにはあんまりだと思ったが、今ではその気持ちが分かる。
 それは彼がふとした拍子に見せる攻撃的なものの言い方や神経質な性格が原因ではなくて、きっと奥のほうに抱えた強い不安が一番身近な人間の心を容赦なく揺さぶるからだ。そばにいると苦しくてたまらないのに、離れようとすると大事なものを置き去りにしているような気持ちになった。

 こういう文章は、それこそ、「誰にでも書けるものじゃない」と思うのです。
 ただ、その一方で、島本さんの作品を読みながら「また似たような話か……」と感じたのも事実で、たぶん彼女が書きたいのはそういう若い女性の「言葉にできない不安」みたいなものなんでしょうけど、読む側としては「ちょっとマンネリ」なんですよね。

藤田香織さんの「解説」にこんな文章があります。

 小学生のころから小説を書いていたこと、入学した高校が自分に合わず中退して単位制の高校に入り直し「リトル・バイ・リトル」が芥川賞候補になった際「初の高校生候補」だったこと、同じく「生まれる森」のときには同学年生まれの金原ひとみ綿矢りさと「83年組(綿矢さんは84年の早生まれだけど)三人娘」と称され、結果として島本さんだけが選に漏れてしまったこと、『ナラタージュ』がヒットした時、現役大学生だったこと。
 正直言って、そんなことは島本理生の小説を語る上で、あまり関係ないことである。が、記事を書く側からすればどうしても読者の目と気を引く「きっかけ」になるかもしれない、と考えてしまう。現に私も、島本さんの書評を書くときに金原さんや綿矢さんと比較したことがあった。
 仮定するのもこれまたおこがましいけれど、もし、私が島本さんだったら、ちょっと面白くないと思う。「若い」ことも、「現役」なことも、事実だけど、そんなことばかり言われたくない。誰かと比べられるのも、仕方がないけど気分の良いものじゃない。
 でも、それでも、私が知る限り、島本さんはインタビューなどで、そうした不満を口にすることはなかった。それどころか、持ち上げられてもいつも謙虚に応えていたし、一作ごとに自分の課題を見つけて小説に取り組もうとしているように感じた。

 島本さんは「文学少女」だったそうですし、この作品に出てくる小説家がテネシー・ウイリアムズだったりして、いかにも「この作家は『読書家』だったんだなあ」という気がするんですよね。
 でも、僕にもうまく言えないのだけれど、島本理生さんの作品には「彼女自身が読書家、本好きであったがためにできてしまった限界」みたいなのがあるんですよね。まだ若いのに、もう「老成」してしまっている、とでも言えばいいのか……
 「上手い、上手いけど、なんだか小論文模試の模範解答みたい……」って感じ。彼女のお父さん世代の「書評家」たちには受け入れやすい、評価しやすい小説なのかもしれないけれど、同世代の人にとっては、あんまり面白くない小説なのではないかなあ。もしかしたら、島本理生さんというのは、小説を書くことに対して「真面目すぎる」人なのかもしれませんね。

ナラタージュ

ナラタージュ

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