琥珀色の戯言

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走ることについて語るときに僕の語ること ☆☆☆☆☆

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

内容紹介
1982年秋、『羊をめぐる冒険』を書き上げ、小説家として手ごたえを感じた時、彼は走り始めた。以来、走ることと書くこと、それらは、村上春樹にあって分かつことのできない事項となっている。アテネでの初めてのフルマラソン、年中行事となったボストン・マラソン、サロマ湖100キロ・マラソン、トライアスロン……。走ることについて語りつつ、小説家としてのありよう、創作の秘密、そして「僕という人間について正直に」、初めて正面から綴った画期的書下ろし作品です。

少なくとも 最後まで 歩かなかった。

村上春樹が、はじめて自分自身について真正面から綴った9章+2

この本のオビには、こんな言葉が書かれています。
僕は20年くらい村上春樹ファンをやっているのですが、「村上さん自身は、『作家・村上春樹』という、あまりに巨大になりすぎた偶像を、どういうふうに感じているのだろう?」と、長年疑問に感じていました。村上さんは「村上春樹として」語ることはあっても、「村上春樹について」語ることは、ほとんど無い人なんですよね、基本的に。
大学を卒業し、ジャズ・クラブを経営しているときに、神宮球場で「啓示」を受けて寝る時間を削って小説を書きはじめた頃から現在に至るまで、傍からみれば大きなスキャンダルもスランプも無い村上さんの「作家生活」は、順風満帆のように見えるのですが、村上さんは、どんなことを考えながら「創作」を続けてきたのか、そして、「作家・村上春樹」という自分が背負っている看板と、どう向き合ってきたのか……
このエッセイでは、そんな「村上春樹として生きるということ」について、かなり率直に書かれているのです。村上さんの性格からすると、こういうふうに「自分語り」をするのにはものすごく抵抗があったのではないかと思うのだけれど、ここに収録されているのが「走ること」に関するエッセイ集だからこそ、村上さんはそんなことを書くのを自分に許せたのかもしれません。「村上朝日堂」の村上さんへの質問コーナーでは、「読者の質問への答え」という形で、かなり「自分のこと」について語っておられたりもするのですけどね。

具体的に言おう。
 誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれども強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物(いれもの)の中に、物語の一部として放出するようにつとめてきた。
 そういう性格が誰かに好かれるとは考えていない。感心してくれる人は少しくらい(たぶんほんの少し)いるかもしれない。でも好かれることはまれだ。そんな協調性に欠けた人間に、何かあるとすぐに一人で戸棚の中にひきこもろうとするような人間に、いったい誰が好意(みたいなもの)を抱けるだろう? しかし僕は思うのだが、そもそも職業的小説家が誰かに好かれるなんていうことが原理的に可能なのだろうか? わからいな。あるいはそういうことも世界のどこかでは可能なのかもしれない。簡単に一般化はできないだろう。しかし少なくとも僕にとっては、小説家として長い年月にわたって小説を書き続けながら、同時に誰かに個人的に好かれることが可能であるとは、なかなか思えないのだ。誰かに嫌われたり、憎まれたり、蔑まれたりする方が、どちらかというとナチュラルなことみたいに思える。

たしかに、村上春樹という人は、「感心されたり尊敬されたりすることはあっても、愛されたり親近感を抱かれたりすることは少ないのかもしれないな、とこれを読んで感じました。「怒り」とか「悲しみ」をこんなふうに昇華できてしまう人というのは、少なくとも会社帰りに居酒屋で一緒に上司の悪口で盛り上がれるタイプではないでしょう。村上さんのストイックや潔癖さというのは、ごく一部の「村上春樹的な人」以外にとっては、「つきあいにくさ」「とっつきにくさ」として認識されるものではないかと思います。出版関係者にとっても、村上さんはかなり「仕事に妥協しない、厳しい人」なのだという話ですし。

あと、僕がちょっと驚いた記述があります。

風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』は芥川賞候補になり、どちらも有力候補と言われたのだが、賞は結局とれなかった。でも僕としては正直なところ、どっちでもいいやと思っていた。とればとったで取材やら執筆依頼やらが続々舞い込んでくるだろうし、そんなことになったら店(当時経営していたジャズ・クラブ)の営業に差し支えるんじゃないかと、そっちの方がむしろ心配だった。

村上春樹芥川賞を獲れなかった」というのは、今となっては芥川賞側の「汚点」として語られることがほとんどなのですが、村上さんがこんなふうに自分が受賞できなかった賞のことを語るのは、非常に珍しいのではないかと思います。たとえそれが「正直どっちでもいい」という内容であったとしても。【どちらも有力候補と言われたのだが、賞は結局とれなかった】という部分からは、それなりに意識していたというのが伝わってくるんですよね。やはり、当時の村上さんにとっては、「芥川賞を獲れなかったこと」というのは、良くも悪くもけっこう「大きなこと」だったのでしょう。

このエッセイ、村上春樹ファンには、ものすごくオススメです。
その一方で、村上春樹に興味がない、あるいは嫌いだという人が、「これを読んだら村上春樹が好きになる」という可能性は皆無でしょう。例外として、「走ることが好きな人」が、この本から村上さんに惹かれることはあるような気はしますが。

それにしても、「走り続けることをやめない」村上さんの作品を「走るなんてめんどくさい、そんなの意味ないよ」と言いながら歩いてばかりの僕がこんなに好きなのは、いったいどうしてなんだろう? どこかに「共感」するものがあるのか、それとも、そういうストイックさに憧れているだけなのか……

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