琥珀色の戯言

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東京大学応援部物語 ☆☆☆☆


東京大学応援部物語 (新潮文庫)

東京大学応援部物語 (新潮文庫)

出版社/著者からの内容紹介
こんなやつら、見たことない! 19対0と一方的な展開の9回裏、「オーイ、東大、絶対にー、逆転だー」バケツの水をかぶり、腕を振り上げた。最後の最後まで必死なのだ。彼らはいったい何者なのか?

星新一 一〇〇一話をつくった人』の著者である最相葉月さんによる、東京大学応援部のルポタージュ。平成14年に取材されたそうですから、今から5年前の話で、ソフトバンクの和田投手や楽天一場投手日本ハムへの入団が決まった多田野投手らが、六大学野球の選手として登場してきます。
僕はこの本を実際に読むまでは、このタイトルに関して、「応援部」なんて、あんな時代遅れの存在、淘汰されてしかるべきなんじゃないか?とか、東大に入るようなエリートたちが、なんでそんなバカバカしいことをやろうと思うんだろう?というような気持ちでしたし、内心、「東大生のくせに応援団に入っているような連中」を嘲笑してやろう、というような意図で、この本を読み始めたことを告白しておきます。
でも、でもね……恥ずかしい話なんですけど、僕は読みながら何度も涙が出てきて困ってしまったんですよね。
いや、この本で紹介されている「東大応援部」の連中は、みんなバカなんですよ、本当に大バカ。
せっかく東大に入れたんだから、もっとエリートらしく、真面目に勉強するなり、女の子と遊ぶなり、家庭教師でもやって、高額のバイト代を稼げばいいじゃないか、と言ってやりたくなるのです。にもかかわらず、彼らは、多くのスポーツにおいて、六大学の「お荷物」的な存在である東大の選手たちを応援するために、過酷なトレーニングをして、講義をサボり、厳しい人間関係に耐え抜いていくのです。

五回表の早稲田の攻撃が始まるとき、私は、そろそろ切り上げようとスタンドの階段を下りて出口へ向かった。早稲田はまだ追加点を入れるのだろう。これ以上、残酷な場面を見たくない、どんな気持ちだった。そのときである。
「てめえら、このまま負けていいと思ってんのかーっ」
うどんや焼きそばの売店が並ぶ暗い廊下の向こうから異様な叫び声が聞こえてきた。さきほどまで学生席のリーダー板と呼ばれる舞台で観客を必死で鼓舞していた学ラン姿のリーダーが、10人ほどの下級生に向かって大声で叫んでいた。売店の脇でうどんをすすっていた初老の男性や場外テレビを見ながら一服していた観客が覗き込んでいる。
「イイエーッ」
なんのためにこれまで練習してきたと思ってるんだっ」
「ハーイッ」
「死ぬ気でかかれよっ」
「ハーイッ」
すると、そのリーダーは脇にあった金属製のゴミ箱に飛び蹴りして、学生席へ戻っていった。残された下級生たちも、それに続いて「ワーッ」と奇声を上げ、階段を駆け戻っていった、いったいどういうことなのか。私は踵を返し、客席に戻った。

0対19で迎えた九回表。5人目の投手、山下敦之がようやく早稲田打線を三者凡退に抑え、このとき初めて早稲田のボードに0の数字がついた。
九回裏、東大最後の攻撃。敗戦はもうだれの目にも明らかだった。ところが、応援部員たちは笑っていた。太鼓を叩き、声を張り上げ、叫んだ。
「オーイ、東大、絶対にー、逆転だー」
逆転だって? いくら応援部といっても、それはないんじゃないの。
私には、白々しく思えるほどだった。しかし、彼らはやめなかった。客席前方のリーダー板に一礼して立った学ラン姿のリーダーは、バケツの水を頭からかぶり、腕を振り上げた。チアリーダーは笑みを絶やすことなく、選手の名前をコールし続けた。バンドのメンバーは楽器を振り回しながら右へ左へと走った。最後の最後まで必死だった。この学生たちは正気なのか。この学生たちはいったい何者なのか。これが、本当に天下の東大生たちなのだろうか。
 こんなやつら、見たことない――。

いや、僕はこの本を読んで、「東大生のくせに、こんなバカなことを真剣にやっている連中」に感情移入しまくりながらも、「でも、だからといって、こういう前時代的な『応援部』というものを肯定してしまってもいいんだろうか?」という自分への疑問を拭いきれなかったのです。この本の解説は三浦しをんさんなのですが、三浦さんも、こんなふうに率直に仰っておられます。

しかし、応援部員たちがストイックに追求する「応援の本質」は、常に危ういものをはらんではいないか。本書に描かれた東大応援部のありかたから、そう感じたのも事実だ。「自分の利益とは関係なく大変なことを他人のためにやっている」、それ自体は尊いことだ。だが、自己犠牲の美学はいつも、自己陶酔と表裏一体の関係にある。自己に陶酔し、犠牲の美学を拡大させていったら、悪しき全体主義と思考停止に陥り、意味のない犠牲を他者に強いる可能性も否定できない。

でも、三浦さんは、「解説」の最後のほうで、こんなふうに三浦さんなりに、その迷いへの「結論」を書かれているんですよね。

ひとつのことに打ちこむのは、勇気がいる。一般的なひとづきあいがあとまわしになり、金が儲かるわけでも、地位が築けるわけでも、異性にモテると確約されるわけでもないとすれば、なおさらだ。それでも、「これをしたい」「せずにはいられない」とこみあげる気持ち、邁進する力を、いったいだれが抑えられるだろう。
 人間は、自分自身と、自分以外のもののために、こんなに一生懸命になれる生き物なんだ。その姿はときとして滑稽で、でもなんてまばゆい――。
 勝敗を超えた、本当の勝利。ひとの心を磨き、ひとの一生を真実の意味で豊かにし、ひとを幸福にするものとはなんなのかが、本書には描かれている。本書に描かれたすべての人々が、迷いながらもそれぞれのやりかたで、たしかに答えを体現してみせている。

僕はこれを読んで、本当にそうだな、と頷いてしまいました。
学歴コンプレックスを抱える僕としては、「所詮、東大生という『未来を約束されたエリートたちの物好きな寄り道』なのではないか?」という厭味ったらしい気持ちもゼロにはならないんですけど、それでも、ここに描かれている応援部員たちは、なんだかすごく美しくて、神々しいように思えるんですよね。最相さんの客観的かつ淡々とした、感動を煽ろうとしない描写にも、非常に好感が持てました。

実際は、このルポタージュが描かれて5年後の平成19年には、「東大応援部にはリーダー部員が二年以下しかいなくなってしまっている」とのことで、日本経済新聞の平成19年6月8日付朝刊には、「大学応援団ピンチ」という記事が掲載されたそうです。それにより、ある野球強豪大学の応援団では男子部員が消え、チアリーダーの女性が男性を努めているのだとか。
それが「時代の流れ」というものであるのでしょうし、僕自身もこのルポタージュで描かれているような「応援部員」になんてなれないような軟弱な大学生活を送っていたのですが、こういう話を耳にすると、やっぱりちょっと淋しくなってしまいます。

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