琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

2007年の『琥珀色の戯言』を振り返って


2007年最後のエントリということで、今年書いたもののなかで、僕自身の思い入れが強かったり、比較的反響があったりしたものをまとめておきます。

「通りすがり」っていうHN (1/17)

ちなみに、僕がそういうコメントをいちいち消さないのは、面倒くさいからと、そうやってずっと晒しておけば書いたヤツはかえって恥ずかしくなるのではないかという嫌がらせと、「そんなコメントすら消さない、公正なブログ運営をしている高潔な人」というイメージアップ戦略の一環としてです。


「3DダンジョンPRG」の歴史と復権 (1/19)

結局のところ、「3DダンジョンPRG」の基幹となるのは「キャラクターの成長システム」であって、それは、『Wizardry』の時点で完成されていたからなのかもしれません。そして、僕が思うに、「3DダンジョンPRG」の楽しさ、「ゲームのシステム的な制約の中で最高の強さのキャラクターを作り上げる」あるいは、「迷宮の完璧な地図を完成させる」という行為って、「プログラミングの楽しさ」ひいては「コンピューターを扱う面白さ」にものすごく似ているのではないでしょうか。


あなたのニュースサイトが流行らない理由 (2/1)

「紹介するニュースは多いほうが良いニュースサイトに見えるだろう」と管理人さんは思うのかもしれませんが、ごく一部の好事家を除けば、閲覧者側にとって、整理されていないニュースの羅列は、目が痛くなり、何を読んでいいのかわからなくなるだけで、ものすごくマイナスの印象しか受けません。


ものわかりが良すぎる「はてなユーザー」たち (3/7)

僕は、できることなら「はてな」に驚かされたい。

でも、率直に言うと、最近の「はてな」はけっこうウザイですよね。なんかこう、揚げ足取りたいハイエナたちが、獲物を通りかかるのをずっと待っているジャングルみたいで。はてなに「思想」が無くなってしまったように見えるのは、ユーザーがそれを求めていないから、なのかもしれません。ユーザーたちが好きなのは「思想」じゃなくて、同じところをぐるぐる回る「はてな論」とか「ブックマークをめぐるバトル」なのだから、そんな中で「思想性」を貫いて商売するのは難しいですよね実際。


「ブログに期待しすぎてしまった人」の悲劇 (3/18)

実は、僕があまりにネットとかブログにスレてしまっているだけで、世の「ブログをやっている人」の大部分は、こういう「なんで自分のブログは編集者の目に留まらないんだ?」という気持ちでやっているのかもしれないな、とも思うのです。


WEB上の「さまよう悪意」 (4/5)

WEBに日記や文章を公開するというのは、本当に怖いことなのです。「繋がれなかった人と繋がれる可能性」がある一方で、「繋がらないほうがいい人と繋がってしまう危険性」もあります。「話せばわかる人」としか接点が無かった人にとって、「話しても聞く耳すら持ってくれない人」「自分の解釈でしか生きられない人」とまで直接繋がらなくてはならないというのは悲劇なのかもしれません。


インターネット「鈍感力」のススメ (4/12)

 僕が思うに、人って、後天的に「鈍感になる」ことはできないのではないでしょうか。そりゃあ、年をとれば、興味の範囲とか価値基準が変わってきますから、今まで気にかかってきたことが気にならなくなったり、その逆のパターンはあるでしょうけど、それは「気になる対象」が変化しているだけで「気にしすぎる性格」っていうのは治らないんですよね。


星新一 一〇〇一話をつくった人 (4/28)

星新一ほど長い間読まれ、愛されている「直木賞作家」はほとんどいませんし、作品の「売り上げ」にしても、星さんを超える作家はごくごく少数でしょう。でも、晩年になって、あらためて自分には無いはずだった「世俗的な欲求」に気付いてしまうというのは、とても辛いことだろうなあ、と思います。


「日記才人」閉鎖と「個人サイト大航海時代」の終焉 (6/21)

この「ブログ時代」までは、「面白い個人サイトのURL」がたくさん載せられた「インターネット雑誌」がたくさん発行されていました。でも、今はもう、そんなふうに個人サイトが紹介されることは滅多にありません。それだけ「当たり前のメディア」になった、あるいは「ネット上のことはネット上で紹介されるようになった」だけのことなのかな、とも思うのですが、「日記才人」の閉鎖というのは、「新しい個人サイト・ブログが右肩上がりに発展していった時代」すなわち「個人サイト・ブログの『大航海時代』の終わり」を象徴する出来事のひとつのような気がしているのです。

別に世界が終わってしまうわけではないけれど、僕たちはもう、「世界の果て」を見つけてしまったのかもしれません。


いま、ブログが抱えている病 (7/14)

今のままでは「高レベルの少数のプレイヤーだけが閑散とした世界で『このゲーム、敵が弱くてつまんない!』と文句ばかり言っているようなオンラインゲーム」みたいになってしまうのではないかと「はてな」運営側は危惧しているのかもしれません。


回転寿司「激安ネタ」のカラクリ (10/2)

そして、安さの最大の秘密は、ネタの偽装である。産地偽装だけでなく、アナゴの代わりにウミヘビを使ったり、化け物のような面構えの深海魚を高級魚のヒラメ、アイナメとして出す。ネギトロに至っては、身肉が赤いというだけで、マグロとは似ても似つかぬアカマンボウが混ぜられ、またブラックバスや真っ黒なアメリカナマズが高級魚のスズキに偽装される。なかには、養殖の現場で廃棄されているはずの奇形のマダイやハマチなどを使用しているケースさえあった。


「痛みに共感する」ということ (11/6)

だから僕は、「非経験者が想像によってその痛みを知ることができるのであれば、経験者よりも具体的にその痛みを感じ何をかを思うこともありうるのではないか」というのは、理屈としてはわかるけれども、そういう仮定を声高に主張されることには、なんだかものすごく抵抗があるのです。「近い経験」すらないのに、自分がその「痛み」を知っているなんて考えるのは、「傲慢」なのではないか?

そして、自分の「想像力」を、そんなに信頼できるのか?


「兄の人生の物語」と「ある個人史の終焉」 (12/12)

いやほんと、「表現する」という行為には、「良い作品を作る」のとは別に、こういう「世間のさまざまなイメージや偏見に耐える」という強さが要求されるのです。


<総括>
今年はなんとなく「比較的平穏な年」だったような気がしていたのですが、こうして振り返ってみると、今年は1月〜4月くらいまではかなり調子に乗って「書き過ぎ」の状態になっており、後半は自分でも参ってしまって失速してしまったような印象です。実際のところ、『琥珀色の戯言』のエントリの多くは、そんなに毒にも薬にもならない「感想モノ」なのですが、「平穏じゃないエントリ」のほうが、どうしても注目されやすい、という面があるのですけど、来年は少しでも読んでくださった方々が前向きな気持ちになるようなエントリが書ければな、と思っております。


それでは皆様、よいお年を!
 

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