琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「新風舎問題」と「素人と専門家の深すぎる溝」


出版の素人が見た甘い夢 - OhmyNews:オーマイニュース

僕は↑の記事を読んで、「多くの人が新風舎で本を出すことを選んだ理由」が少しわかったような気がしたのです。

先日、北澤強機記者が新風舎民事再生法の適用を申請した、という記事を書いていたが、現在、契約中という出版希望者の中には、私の知人の70代男性も入っている。

 彼は、2007年、手付け金27万円を支払って、手書き原稿を送ったが、その後、数カ月ウンともスンとも言ってよこさないので、秋に私に相談を持ちかけてきた。

 内容を聞くと、最終的に、137万円支払うと、500部を刷り、本人には50部渡し、後は書店に売り込みをかけるという事だった。話自体におかしいと思われる点はないが、まず137万円の明細書がない。この男性は、出版契約書もよく読まず、私があれこれ聞いても契約内容を全く把握していない。

 日頃「金がない」を繰り返し、月々3000円ほどの携帯電話料金がもったいなくて、キャンセルしたような人なのだが、大手の新聞に広告を出しているからと、すぐに信用し、ぽんと大金を支払う。こういう彼の金銭感覚が私にはよくわからない。

 動機がまた不可解である。自分史を出したい気持ちはわかる。が、50冊の本は誰に売るでも、あげるでもなく、手元に置いておくのだそうだ。残りの450部は売れると思ったというが、インターネットも使わず、自分で努力もせず、「素人の稚拙な文章(と出版社に言われたそうだ)」でつづった自分史を、出版社が熱心に営業する訳がないだろう。

筆者は、「この知人の金銭感覚がよくわからない」と書かれているのですが、僕はこの「知人の70歳男性」の気持ち、なんとなくわかります。「月々3000円の携帯料金をもったいないと感じる人」であるというのと、「100万以上のお金がかかっても自分史を『出版』したいという人」というのは、別に矛盾していないと思うので。
70歳という年齢まで、頑張って貯蓄をしてきて、残りの人生の長さを考えたとき、やっぱり何か「形になるもの」を残したい、という気持ちが出てくるのは、おかしいことでもなんでもないような気がします。本人は「売れると思って」って仰っていたそうですが、「自分が生きていた証を残しておきたい」という気持ちもあったのではないかと。「本」っていうのは、たしかに、かなりわかりやすい「自分が生きていた証」のひとつの具体的な形でしょうから。
そして、この文章の内容から伝わってくるのは、「出版に関わっている人」たちの、「出版の素人」への徹底した「上から目線」なんですよね。

売り込みをかけるという450部は、失礼ながら売れるとは思われない。自分史などは売れ筋ではないのだ。事実インターネット上には、ほとんど営業していないという情報が載っている。

なぜ出版したいのか、よくよく聞いてみれば、それは儲かるかもしれないという、欲と自己満足のエゴの為らしい。自己満足代137万が惜しくないという人はいいかもしれないが、前述したように、彼は日頃ケチケチと暮らしている人なのだ。惜しくない訳がない。売れ残りは、本人が引き取る場合は7掛けだそうだ。この代金は既に支払い済みだろうに。最初に渡された50冊は、これでは1冊2万7千円に付く事になる。

27万ものお金を支払う前に、どうして、多少は出版界の事を知っている私に相談しなかったのかと聞くと、学歴のない自分が相談しても笑われるだけと思ったそうだ。

この「知人」の予想はまさに「大当たり」だったわけで、筆者は、結局のところ、「そんな本は売れるはずない」と、最初から「笑っている」ようにしか見えないんですよね。いや、彼女の「売れないだろう」という予想は正しいんだけれども、僕がその知人であったとしても、こういう「多少は出版界のことを知っている人」に相談するのは、二の足を踏むと思います。新風舎の人たちは、(それが営業トークだったとしても)もっとやる気が出るような出版の勧めかたをしてくれたのでしょう。たとえ費用が2倍でも「どうせこんなの売れるわけないんだけど、しょうがないから60万円で印刷してやるよ」という態度をとられるよりは、130万円請求されても、「いいですよこれ、売れますよ、頑張りましょう!」って言われたほうが嬉しいに決まっていますよね。

それに、「そんなの儲かるわけないから無駄だ」と言いはじめれば、宝くじを買う人なんて、みんな大バカじゃないですか。すべての人間の行き着く先が「死」であるならば、携帯料金をケチって130万円の「夢」を買うような人生は、果たして全否定されるべきものなのか? そもそも、人が本を出す理由なんて、ほとんどの場合「欲と自己満足のエゴ」以外の何者でもないはずですし。
新風舎のやっていたことが、「ぼったくりすぎ」であったのは間違いないのでしょうけど、「専門家」の「そんなの売れるわけないよ」という態度こそが、かえって「普通の人が本を出すという行為」の敷居を高くしてしまって、新風舎のような商売が成り立つ原因になっている気もするんですよね。
そういえば、あの豊田商事の事件でも多くの高齢者は、「自分たちの話を聞いてくれるから」という理由で、彼らにお金を預けていたのです。


しかし、これって考えてみれば、「悪質な民間療法に騙される患者さんを哂う医者」というのと同じような関係ではあるのです。「専門家」である以上は、「専門家としての立場や見解」が求められるし、現実を「思い知らせる」のが「正しい姿勢」だと言われれば、それはけっして間違いではありません。最終的には、「騙された人の自己責任」。ただ、こういう「専門家と素人のあいだの溝」が深ければ深いほど、その隙間を埋めるものとして、こういう「素人相手の出版ビジネス」がやりやすくなるのは確かでしょう。

結局のところ、人は「信じたいものを信じる」生き物なのだと思います。そして、自分のことをバカにしている人の意見は、どんなにそれが「正論」でも、なかなか「信じようとは思えない」。新風舎の場合は「何千万円、というほどの致命的な金額でもない」し、「命にかかわるわけでもない」ですし。そういうところにつけこむ商売って感じ悪いよなあ、とは思うけれども、「お金を払って自伝を出版するような行為は、すべて愚の骨頂」みたいな風潮というのも、それはそれでせつないように感じられるんですよね。人生の最後に、そのくらいの「希望」を買うことは、はたしてそんなに悪いことなのでしょうか?

アクセスカウンター